家相 (Kaso (physiognomy of the house))
家相(かそう)とは、風水や気学などと通じる開運学の1つ。
後天的運命学と分類されることもある。
宮内貴久の著物では、良い地相の土地に、陽宅と隠宅によって、住まう人々の幸福を願う思想あるいは、思想に基づく実践のことと定義している。
日本では、このうち陽宅風水が家相という形で普及したものである。
ただし日本においては、「地相」と「家相」の別個の定義に対して、包括的に「家相」として用いられてきたとも述べている。
概要
宮内貴久の著物によれば、住居とは生存の拠り所として、最も根本的な施設であり古来より生命や財産を守るための工夫を重ねてきたが天災によって、当時としては不可解な被害(例えば地震)に見舞われていたことから災いの要因を含めた「世界を支配し統括する原理を知りたい」という欲求に晒された結果、住宅に対して、人々が居住生活に求める概念を実体化させて、長い年月を経て培われた知見が規範化され影響力を持ち家相の世界観が生み出されたと述べられている。
江口征男の著書によれば、彰国社「建築大辞典」の家相の項目では、冒頭にて「民間俗説の一」と位置づけており四神相応との発生を同じくするものであり禁忌や呪術による信仰的存在が関係していると定義されていると述べられている。
日本での歴史
以下、日本における江戸時代以降の歴史について触れる。
江戸時代
松平英明、本間五郎の著書では、天明から寛政の時代にかけて急増し、享和から化政にかけて再盛期を迎えたと考えている。
それには、刊行年月の特定が出来るものと出来ないものが100冊あったとする内藤昌の集計(ref.内藤昌,1961)。
特定可能が50冊あったとする横山敬の集計(ref.横山敬,1981)。
176冊の中から文化、文政、天保の年に多く出版されているという村田あがの分析結果。
これらを、根拠としている。
また江戸時代での出版規制の事実も松平英明、本間五郎の著物では、以下の事例について、述べている。
1696年、風水について触れた著物の1つ、陳畊山「三才発秘」は、1696年に、卯川四番船で中国から輸入されたものであるが一部墨消しと差返しの処分を受けるだけに止まらず1685年以降は禁書の指定を受けた(ref.大庭脩,1967)。
1801年9月、大阪南宝寺の板元 河内屋八兵衛が出願した松倉東鶏の著書「方鑑精義大成」が風儀を乱すとの理由で不許可となる。
ただし翌年5月に再出願を行った結果7月に許可が下りた。
1802年9月、大阪長堀心斎町の板元 播磨屋五兵衛が出願した「弁惑書口訣」「天分捷径平天儀図解」の2冊に対して、暦に差支えないか問題となる。
これらの本は、当時著名な暦学者であった麻田立達の鑑別と証言により許可が下りた。
明治・大正
宮内貴久の著物によれば、政府から各府県に対して、民族調査を命じ生活細部に影響を及ぼす禁令を敷いた。
特に、 1872年には、教部省により淫祠邪教の類として家相も直接的に禁止されることとなった。
と述べられている。
そして、この流れを受け継いだ大正時代には、学会誌「建築雑誌」や各種新聞雑誌の類などを行い、この運動は昭和初期まで続くこととなり民俗学において、民家研究や民族宗教研究といった研究分野での進展がなかった。
とも分析している。
昭和
松平英明、本間五郎の著書には、「所が目下市中で家相方位鑑定の看板を掲げている大部分の易筮(えきざい)家は、兎角職業的な意識から脱することが出来ないため、何等かの欠点を見出すと必ず其れに乗じて何ら彼のと難癖をつけたがるものである。
これは余程御注意なさらないといけない」「高島嘉右衛門「占い」は「売らない」が東京だけで数十軒も看板を揚げて、ついに警視庁に召喚されたことは...(中略)...こうした横着者が市中にたくさんなるのである」と世の中を憂いだ記述がある(鉤括弧部は引用。
一部現代漢字への変換あり)。
1931年、内田寛一が地理学の観点から認識された自然を考慮すべきだと主張するも研究は、進展しなかったとされる。
1946年、文部省迷信調査協議会によれば「鬼門を避けるか」という問いに関して、信じるかどうかを別として「避ける」という回答が2/3に及んでいると報告された。
1960年代末、清家清によって、建築計画学、建築史学、地理学の3分野から研究が進められることとなる。
清家は、建築学の観点からある一定の科学性が認められると論じたとされている。
1981年には、宮野秋彦によって、家相の方位吉凶と自然環境との相関性について研究が進められ中国の西安や洛陽の自然環境に一致すると報告されている。
諸説
佐久間象山は、一般的な家相に使われる基準に対して異を唱えている。
「由来日本の地湿潤の気多く燥気甚き支那の気象と相異す。」
「故に支那の建築と日本の家宅とは自ずから其の形態洋式と異にせり。」
「仍って庇の出様、縁側の造り方等、まったく日本国特殊のものにして、而も其形似すべからず。」
「猥に之を改むるは寧ろ気候国土に反すると知るべし。」
このような言葉を残し支那で培われてきた家相説を日本に適用すべきではないという考えによるものである。
佐久間象山は例示として、納屋や穀倉、便所等を本宅の東あるいは東南に配置するのは、東の光線と冬の東南の光線を遮断するので離れに構えるかするべきで母屋につづけるべきではない。
鬼門の方角(東北)のスミに少し寄せた位置に、納屋や物置を配置することは、夏の強烈な朝日を避けることができるとしており太陽光線と四季の関係からこのような配置に差し支えなしと断定したと伝えられている。
流派と考え方
松平英明、本間五郎は、家相の流派を、大きく3つに分けている。
神谷古暦派
神谷古暦派は、易学を基本として家相を鑑る。
方位には、九星を用いる。
村田あがの著物によれば、江戸時代の家相学では、畳数に陰陽五行での「木」「火」「土」「金」「水」を割り当て、相生、相剋を判断していた。
村田あがによれば江戸時代の家相説では、その一例として「九畳八畳の続き間の如きは、土生金の吉相なり」(かぎ括弧部は村田あがの著物より引用)といったように使われていたとされている。
ただし典拠となる漢籍には、このような考え方は存在しないとも述べている。
松平英明、本間五郎の著物によれば、神谷古暦派が畳数の鑑定法に肯定的であったと記されている。
松平東鳩派
松平東鳩派は、風水理気学を基本として家相を鑑る。
方位には、干支方を用いる。
松平琴鶴派
松平琴鶴派は、風水理気学と九星を用いることから折衷派とも呼ばれる。
また松平英明、本間五郎の著物によれば、流水法に否定的であったと記されている。
運用の相違
流水法、八宅法などの多種多様な鑑定法の存在、各流派で採用する鑑定法や主張の相違などにより代表的なものに、以下のような相違が生じていると松平英明、本間五郎は、主張する。
家の中心点
家の中心は、大まかに3つの考え方がある。
敷地の中心を取る
家屋の形から中心を点を取る
家主の居間、奥居間を中心とする
村田あがによれば、江戸時代では、家主の居間奥居間を元とする考えが多いと述べており、家主が長期不在の場合は、一家の吉凶を敷地中心点で取りつつも同敷地内にて生活する留守居番の吉凶は、留守居の住まいの中心で判断するなど中心が2箇所とる考え方があったと述べている。
方位の判断方法
九星、干支方、八方、二十四方など
論争
家相を迷信であるとする主張には、文献間の吉凶統一性の欠如、水周りと鬼門に関する客観的記述と科学的データの欠如、水周り部の科学的根拠の希薄性があげられる。
これに対して、宮内貴久は、合理性が明らかにしたところで無意味で住宅観を明らかにすることが重要であると述べており、佐久間象山は、諸説の節で記載しているとおり「支那で培われてきた家相説を日本に適用すべきではない」と述べておりこれらが統一性の欠如を示唆している。
以下に、学術的な見地から支持あるいは反支持の立場であったとされる人物を述べる。
支持者ら
高野富文 (長野県上田地方の家相観の報告、1963)
佐藤勘、佐藤力次郎 (力次郎による鬼門と戌亥信仰に関する論考、1976)
反支持者ら
須貝高 (- 不明 - 1985年)
大下一司 (- 不明 - 1985年)
西園苧 (- 不明 - 1986年)
大熊喜邦 (学会誌「建築雑誌」家相の話、- 不明 -)中国からの伝来であり多くは迷信であるとした。
伊藤忠太 (学会誌「建築雑誌」方位家相について、- 不明 -)化政期から日本でも流行しだした説であるとした。