寺子屋 (Terakoya)

寺子屋(てらこや)とは、江戸時代の庶民を対象とした教育施設である。
僧侶や武士や医師などが、庶民の子弟に読み書きそろばんや実務上の知識・技能を教育した施設をいう。
手習い所や手習塾ともいう。

沿革

寺子屋の起源は、中世の寺院での教育に遡ると言われる。
その後、江戸時代に入り、商工業の発展や社会に浸透していた文書主義などにより、実務教育の需要が一層高まり、先ず江戸や京都などの都市部に寺子屋が普及して行った。
寛政年間(1690年代)頃から農村や漁村へも広がりを見せ始め、江戸時代中期(18世紀)以降に益々増加し、特に江戸時代後期の天保年間(1830年代)前後に著しく増加した。
又、経営形態も職業的経営に移行する傾向を見せた。

寺子屋の教師(師匠)には、僧侶・神官・医師・武士・浪人・書家・町人などが多かった。
修学者の多くが、各地の寺子屋教師となっていた足利学校のように、寺子屋の教師を養成する学校すらあった。
また今日の塾と違い、当時の寺子屋の師匠は、往々にして一生の師である例も多かった。
寺子屋の生徒を「筆子」といい、師匠が死んだ時には、筆子が費用を出し合って師匠の墓を建てる事が珍しくなかった。
そのような墓を筆子塚といい、房総半島だけでも3350基以上の筆子塚が確認されている。

寺子屋では、「読書算」と呼ばれる読書・習字・算数の基礎的な知識の習得に留まらず、地理・人名・書簡の作成法など、実生活に必要とされる内容の教育が総合的に行われていた。
教育は第一に数字の習得から始まり、次いで文字の習得が為される事が多かった。
そして、実生活に必要とされる知識や技術の教育が行われた。

「寺子屋」の名称は主に上方(京都・大坂・伊勢市など)で用いられ、江戸では「手習指南所」「手跡指南」などと呼ばれた。
寺子屋の「子屋」が「こや(小屋)」に通じる点や、「屋」が屋号に通じる事が教育の場の名称に適切ではないと考えられたからである。

幕末に内外の緊張が高まると、浪人の再就職(仕官)が増えた事により、町人出身の師匠の比率が増えた。
また国学の初歩である古典を教える寺子屋も増えるなど、時代状況に応じて寺子屋も少しずつ変化を遂げて行った。

明治維新期の1872年に学制が敷かれると、寺子屋は次第に消滅して行った。
しかし、寺子屋によって実務的な教育が庶民の間に定着しており、明治初期における日本の識字率は世界最高水準にあった。
明治期の日本が急速に近代化を達成できた要因のひとつに、寺子屋が庶民に高い教育水準をもたらしていた背景をあげることができる。

教材
教科書としては、『庭訓往来』『商売往来』『百姓往来』など往来物のほか、文字を学ぶ『千字文』、人名が列挙された『名頭』『苗字尽』、地名・地理を学ぶ『国尽』『町村尽』、『四書五経』『六諭衍義』などの儒学書、『国史略』『十八史略』などの歴史書、『唐詩選』『百人一首』『徒然草』などの古典が用いられた。
中でも往復書簡を集めた形式の書籍である往来物は特に頻用され、様々な書簡を作成する事の多かった江戸時代の民衆にとっては実生活に即した教科書であり、「往来物」は教科書の代名詞ともなった。

就学者
寺子屋の就学年齢や卒業時期は、特に定まっていた訳ではなく、およそ5~6歳で就学し、13~14歳から18歳になる頃まで修学する例が多かった。
男子限定や女子限定の寺子屋も少なくはなかったが、男女共学の寺子屋が多数であった。
江戸における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70~86%といわれており、イギリスの主な工業都市で20~25%(1837年)、フランス1.4%(1793年)、ソビエト連邦20%(1920年、モスクワ)と、外国に比べ就学率が高かった。
幕末期には、江戸に約1500校、全国では約15000校の寺子屋が存在した。
1校辺りの生徒数は、10人から100人と様々であった。

ユネスコ世界寺子屋運動

寺子屋を世界中に普及させようとしている運動が、国際連合教育科学文化機関が提唱している世界識字教育運動の1つであるユネスコ世界寺子屋運動(World Terakoya Movement)である。

[English Translation]