屯田 (Tonden)
屯田
屯田(とんでん)は、兵士による開拓・駐屯の制度。
屯田(みた)は、日本古代の皇室領。
兵士による開拓・駐屯の制度
屯田(とんでん)は、一般に、兵士に新しく耕地を開墾させ、平時は農業を行って自らを養い、戦時には軍隊に従事させる制度、またその場所や地域を言う。
中国
前漢の武帝は、辺境地帯を防衛する兵士に農耕を行わせた(軍屯)。
魏 (三国)の曹操は、韓浩・棗祗らの提言に従って屯田制を導入した。
これは、辺境地帯でなく内地において、荒廃した田畑を一般の人民にあてがって耕作させるもの(民屯)で、当初は許都の周辺で行われ、のち各地に広まった。
屯田制下の人民は、各郡の典農中郎将、各県の典農都尉によって、一般の農村行政とは別に軍事組織と結びついた形で統治された。
司馬懿の提言で、長期にわたる抗争を繰り広げていた呉 (三国)・蜀それぞれの国境付近(淮河流域、関中)でも軍屯が展開され、これにより安定した食糧供給を維持した魏は、両国との争いを有利に進めた。
晋の時代になると民屯が廃止され、軍屯のみが残った。
こうした国家が土地・人民を直接に管理・支配しようとする試みは、のちの均田制にも通じるものであったといえる。
日本
明治時代に屯田兵が北海道で開墾に従事した。
この制度を屯田兵制という。
札幌市北区にある屯田 (札幌市北区)(とんでん)、中央区 (札幌市)山鼻の東屯田通駅、西屯田通は、屯田兵が駐屯したことから付けられた地名である。
日本古代の皇室領
屯田(みた)は、大王 (ヤマト王権)の直接支配する田地。
その管理のために置かれたのが屯倉である。
大宝令では屯田、養老令で官田といわれているもの。
大和・摂津に30町、河内・山城に20町と規定された。
全国に点在する「富田」(とんでん・とんだ・とみた)と呼ばれる地名は、その多くが屯田が転じたものであると考えられている。