巣伏の戦い (Battle of Subushi (a battle fought between the Imperial Army and Emishi in Rikuchu Province in Nara period))
巣伏の戦い(すぶしのたたかい)は奈良時代に東北地方(後の陸中国)で発生した、朝廷軍と蝦夷による戦闘である。
経緯
788年(延暦7年)、紀古佐美が征東将軍に任じられ、翌789年(延暦8年)、朝廷軍を率いて蝦夷征討へ赴く。
陸奥へ達した朝廷軍は、蝦夷側の首領阿弖流爲の根拠地である胆沢の入り口にあたる衣川村に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。
戦闘
北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、阿弖流爲の居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。
当初は優勢で、朝廷軍は敵を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。
朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、鮮やかに決まった戦術は日本古代史に類例がない。
戦後
再度の征討軍として、大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍が編成されたが、その交戦については詳細が伝わらない。