建武の新政 (Kenmu Restoration)
建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇がみずから行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策(「新政」)である。
名は、翌1334年に定められた「建武 (日本)」の元号に由来する。
第二次世界大戦前は建武の中興と表現されていた。
近年の歴史学では「建武政権」という表現も多い。
後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、1336年(建武3年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。
経過
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条氏得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。
元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動し、幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。
その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、1318年(文保2年)に大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想とし、鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。
後醍醐天皇の討幕計画は、1324年(正中 (元号)元年)の正中の変、1331年(元弘元年)の元弘の変と二度までも発覚する。
元弘の変で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。
しかし、後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内国の楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した播磨国の赤松則村(円心)らが幕府軍に抵抗し、さらに幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集める。
1333年(元弘3年/正慶2年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げる。
京都で足利高氏の兵が六波羅探題を滅ぼし、新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼし鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還する。
新政の開始
後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止、光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言し、さらに関白の鷹司冬教を解任した。
帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始(自らの重祚<復位>は否定し、文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促し、上洛した武士を収めて京都支配を指揮していた。
6月5日、高氏が鎮守府将軍に任命され、天皇の諱「尊治」から一字を与えられ「尊氏」と改めた。
尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月23日に護良親王を征夷大将軍に任命する。
6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布され土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとなった。
7月には諸国平均安堵令が発せられ、朝敵を北条氏一族のみと定め、知行の安堵を諸国の国司に任せた。
記録所、恩賞方、9月には雑訴決断所がそれぞれ設置される。
関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立し、12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。
1334年正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められる。
また、年号が「建武」と定められる。
1月には天皇の皇居にあたる大内裏の造営のための二十分の一税などの新税が計画され、土地調査が行われる。
『楮幣』とよばれる新紙幣、貨幣の発行も計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていない。
この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政の問題が早くも露呈する。
5月には諸国の本家、領家職が廃される。
徳政令が発布され、寺社を支配下に置くための官社解放令が出される。
また、雑訴決断所の訴訟手続法10ヶ条が定められる。
将軍職を解任され、建武政権における発言力をも失っていた護良親王は武力による尊氏打倒を考えていたとされ、10月には拘束され、鎌倉へ配流される。
12月には八省卿が新たに任命され、家格の伝統を軽視した人事が行われる。
新政の瓦解
1335年(建武(日本)2年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。
6月(旧暦)、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟北条泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見天皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。
公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。
鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月 (旧暦)には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。
足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。
尊氏が勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうと、後醍醐天皇は追って尊氏を征東将軍に任じる。
時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据え、乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。
尊氏は、天皇から離反しなかった武士で最強の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張し、その討伐を後醍醐天皇に対して要請する。
後醍醐天皇は尊氏のこの要請を受けず、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は敗北し、1336年(建武 (日本)3年)1月に足利軍は入京する。
後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から下向した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。
同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京、ここに新政は2年半で瓦解する。
入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝 (日本)が成立する。
9月に後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣し、新田義貞に恒良親王・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせる。
後醍醐天皇は11月には比叡山を降りて足利方と和睦し、光明天皇に三種の神器を渡すが、12月に京都を脱出し、吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させ、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。
ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代 (日本)が到来し、1392年(元中9年/明徳3年)の南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。
新政の機構
中央
太政官
八省
諸官司
記録所
記録所は、平安時代に藤原摂関家から権力を取り戻そうとした後三条天皇が1069年(延久元年)に記録荘園券契所を設置したことに由来し、建武政権における中央官庁の最高機関として設置された。
記録所は後醍醐の親政時代に再興し、建武政権では荘園文書の調査に加えて一般の訴訟も担当。
構成員は楠木正成、名和長年、伊賀兼光など。
恩賞方
恩賞方は鎌倉幕府の討幕運動に参加したものに対する論功行賞を処理。
記録所や恩賞方は調査機関であり、個々の政務に関する判断を下すための先例や意見が答申され、それらが後醍醐の決済を経て「綸旨」の形で発せられた。
雑訴決断所
所領関係を管轄、鎌倉幕府の引付衆に相当。
地域別に担当する4~8番編成で設置され、偶数日、奇数日にそれぞれ開廷された。
成員は公家のほか足利家家臣の上杉氏や足利尊氏の執事高師直、旧幕府の官僚二階堂氏など公家・武家双方から多くの人材が登用された。
武者所
天皇の親衛隊。
長には新田義貞を任じ、尊氏に対抗させた。
窪所
地方
陸奥将軍府(福島県伊達郡霊山町)
義良親王を将軍とし、北畠親房・北畠顕家父子に補佐させた。
鎌倉将軍府
成良親王を将軍とし、足利直義(尊氏の弟)に補佐させた。
守護・国司
恩賞・人事
足利尊氏に鎮守府将軍・左兵衛督の官位を与え、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を賜り、「高氏」→「尊氏」と名を改めさせる(高氏の「高」は北条高時からの偏諱である)。
尊氏の弟である直義は左馬頭に任官される。
護良親王は征夷大将軍の職を望み、一時は補任するものの、1334年(建武 (日本)元年)に護良親王が失脚して鎌倉に幽閉されると将軍職も剥奪される。
公家では吉田定房・万里小路宣房・北畠親房の「後の三房」と千種忠顕・坊門清忠らを重用し、後伏見天皇院政の人材も能力に応じて採用した。
武家では楠木正成・名和長年(伯耆守)・結城親光(3名と千種忠顕とを合わせて「三木一草」という)、さらに真言宗密教の僧である文観や円観などの非・公家の人材も積極的に登用する人事であった。
しかし、後醍醐天皇によって勲功第一と賞された尊氏は、新政の役職には就かなかった。
これは、尊氏が新政とは一線を画そうとしていたためであると言われている。
この状態は「尊氏なし」と呼ばれた。
後醍醐天皇の政治
後醍醐天皇が政治理念を標榜した言葉として『梅松論』にある「現在の例もかつては新義であった。
朕の新儀は未来の先例たるべし」という発言が知られる。
新政の当初は院政を行わず、摂政・関白や征夷大将軍などを設置せずに政治権力の一元化を目指しており、表面的には復古王政を装いつつ、内実は先例主義を否定する革新的な政治路線であった。
後醍醐天皇やその近臣らは中国への関心や朱子学(宋学)的な君臣名分論の影響を受けていたとされ、宋代の官制との比較などから、君主独裁政を目指していたとも考えられている。
1334年正月に定められた「建武」の年号は、中国の後漢王朝の25年に劉秀(光武帝)が王莽を滅ぼし漢王朝を復興した際に定めた元号であり、先例に反し、辛酉革命説により「武」の一字が不吉であると断固反対した公家衆の反対を押し切って定めたものであった。
新政を批判したものとして、1334年(建武 (日本)元年)8月には新政を風刺した『二条河原の落書』が書かれる。
1338年(延元3年/建武 (日本)5年)には北畠顕家が出陣前に新政の失敗を諌める諫奏を行い、北畠親房の『職原抄』や公家の日記などにも新政への批判や不満を述べる文章があるなど、武家や庶民のみならず、後に後醍醐天皇方について北朝と対立した北畠父子のような公家でさえ、新政を支持していなかったことが示唆される。
新政の矛盾
建武の新政は、性急であったことと、複雑化した土地訴訟事案への対応ができなかったことで混乱した。
その様子は『二条河原の落書』にも記されている。
実質的に全国の土地を支配していた武士を天皇が直接支配することは全く前例のないことである上、性急な政策であったため武士たちの支持を得ることはできなかった。
倒幕の功に応じて十分な恩賞を与えられた武士は、足利尊氏、新田義貞、楠木正成ら一部に過ぎず、最初から倒幕運動に加わって六波羅攻略に功を立てた赤松則村(円心)が播磨国の守護職を没収されたり、1つの土地に何人もの領主が現れて混乱するなど倒幕の功に対する恩賞が不公平で、新政の初期から武士の不満は強かったと推測され、後醍醐の近臣である吉田定房や千種忠顕が詰め腹を切らされる形で出家させられている。
また万里小路藤房のように政権に失望して出家してしまう者も現れた。
公家・武家の別や能力の有無に関わりなく人材を登用したため、行政は混乱を極めた。
地方においても、形骸化していた律令制の官の復権である国司と、鎌倉幕府以来の武家による統治機構である守護・地頭の並立は、当初から新政の矛盾を示すものであった。
また、大内裏の造営のための二十分の一税などの新税や、新貨幣鋳造、新紙幣発行などの唐突な経済政策は倒幕戦争直後の疲弊した経済の混乱に拍車をかけた。
史料
『建武年間記』
『建武年中行事』
『太平記』