承元の法難 (Jogen no Honan)

承元の法難(じょうげんのほうなん)とは、法然が率いる専修念仏の衆徒が弾圧され、法然以下、親鸞ら中心的な僧徒が各地に流罪となった事件のことである。

発端は、1204年(元久元年)の比叡山の僧徒による、専修念仏停止を訴える蜂起である。
彼らは時の天台座主真性に対して訴えを起こした。

法然は「七箇条制誡」に門弟ら190名の署名を添えて延暦寺に送り、対天台については収束を見た。

が、1205年(元久2年)南都の興福寺の奏状によって遂に念仏停止の断が下ってしまった。
この時には、興福寺の僧徒から、法然教団に対して、九箇条の過失が突きつけられた。

新宗を立てる失

新像を図する失

釈尊を軽んずる失

万善を妨ぐる失

霊神に背く失

浄土に暗い失

念仏を誤る失

釈衆を損ずる失

国土を乱す失

また、とりわけ、六時礼讃の念仏に節をつけた念仏興行で人気を博していた安楽房遵西や法本房行空が攻撃の的にされた。
法然は行空を破門処分としたが、事態は収まらなかった。

1207年(建永2年・承元元年)、鎌倉幕府が興福寺の強訴に従い、法然は譛岐国に流罪となった。
この時も、遵西と住蓮が鹿ヶ谷で行なった念仏興行が問題となった。
その美声が、後鳥羽上皇院の女房たちを魅了し、落髪して尼となったことで、上皇が激怒し、2僧を処刑した上で、法然を流罪としたものである。
他にも2僧が処刑され、法然のほか7僧が流罪となった。
親鸞は越後国に流罪されている。

法然は、土佐国まで赴くことなく、讃岐で赦免を受け、摂津国の勝尾寺に滞在した後、1211年(建暦元年)に都に戻った。

[English Translation]