押小路烏丸殿 (Oshikoji Karasumadono Residence)
押小路烏丸殿(おしこうじからすまどの)は、中世京都にあった邸宅の1つ。
後に二条家摂関家の邸宅を経て、本能寺の変の際に織田信忠が戦死した二条城織田信長・誠仁親王の「二条新御所」となる。
現在の京都市中京区二条殿町及び御池之町、龍池町付近と考えられている。
通称二条殿。
元は陽明門院の御所があったとされ、後に後鳥羽院の寵臣藤原範光の邸宅を経て、承元3年(1209年)に後鳥羽院の仙洞御所(三条坊門殿)となった。
この邸宅の南側には後世「龍躍池」と呼ばれる広大な池が存在し、池の上には「泉殿」と呼ばれる離れが建てられ、本邸と結ばれていた。
後に陰明門院の御所となったが、貞応元年(1222年)の火災で焼失した。
その後、正嘉元年(1257年)になって後嵯峨院によって新たな御所が造営された。
これが押小路烏丸殿の直接の祖となる。
弘長2年(1262年)に院が寵愛する西園寺成子に与えられて以後彼女はここで生活した。
さて、二条家の祖である二条良実がここに居住したとする『拾芥抄』の説があり、また「二条京極第」に邸宅が存在したことから「二条」の家名が成立したとする説もある。
更に二条家に伝わる『二条押小路家門亭泉記』には二条良実が建長年間に相博したと記されている。
だが、二条良実邸は後に内裏として用いられる二条富小路殿であったことが、『平戸記』寛元2年4月20日条に記された良実の冷泉殿から二条富小路殿への移転記事(「今夜殿下(二条良実)御渡二条富小路御所」)から確認可能である。
また良実の子二条道良が死去したのが、二条富小路殿であったことも『経光卿記』正元 (日本)元年11月8日条の死去記事(「今暁(二条道良)令薨去給云々、坐二条富小路亭、已為陣中、旁無便宜」)に明記されている。
このため二条良実邸が押小路烏丸や二条京極にはなかったと考えられている(なお、当時二条富小路殿は里内裏である冷泉富小路殿とは二条大路を挟んで斜め向かいにあり、里内裏の出入口(陣)の一部とみなされていた)。
また、建長年間(貞応と正嘉の間の時期)に押小路烏丸殿の施設が存在したかも不明であり、少なくても二条良実が押小路烏丸殿の主であった可能性は低い。
更に室町時代後期に壬生晴富が二条持通より、相博を行ったのは永仁年間であったとする話を聞いており(『晴富宿禰記』文明 (日本)10年3月9日条)、後伏見天皇が二条富小路殿にて即位した。
永仁6年(1298年)以前の13世紀後半に二条富小路殿と押小路烏丸殿の相博が行われている。
以後、二条家代々の邸宅となり、摂関を5度務めた二条良基の拠点もここに置かれていた。
良基が17歳であった建武 (日本)3年8月15日 (旧暦)(1336年9月20日)、建武政権を崩壊させた足利尊氏の工作によって持明院統の光厳上皇及び弟の豊仁親王が押小路烏丸殿に入った。
光厳上皇の御所とされた泉殿にて親王の元服が行われ、そのまま上皇の猶子として寝殿において践祚の儀が執り行われた。
ここに北朝 (日本)が成立することとなり、これを吉例として次の崇光天皇の践祚もここで行われた。
時代が下って、応安元年/正平 (日本)23年閏6月13日(1368年7月28日)に雷雨の押小路烏丸殿の池から白龍が昇天するのを目撃したという話があった。
これを聞いた中巌円月がこの池を「龍躍池」と命名したという。
ところが、二条家が居住して以後、度重なる火災などの災害、そして応仁の乱にも被害を受けなかった筈の押小路烏丸殿が文明9年11月11日 (旧暦)(1477年12月16日)に放火によって焼失してしまう(奇しくもこの日は大内氏の撤退によって応仁の乱の戦闘が事実上終了した日であった)。
9年後に建物は再建されたものの、これを機に二条家は当主の急死が相次ぎ(明応6年(1497年)には2歳の二条尹房が当主となるが大寧寺の変で殺害されている)、政治的にも経済的にも没落の一途を辿っていった。
戦国時代 (日本)の『洛中洛外図』に二条殿の立派な姿が描かれている。
しかし実際には当主は生活苦から各地の大名を頼って転々とし、邸宅の施設は荒廃して、京都の人々は身分の上下を問わずに勝手に邸内に侵入して庭や池を見て楽しむ有様であった。
その状況を立て直したのが、織田信長の上洛をいち早く支持した二条晴良であった。
だが、天正4年(1576年)に押小路烏丸殿を気に入った信長は二条晴良に迫って退去させ、村井貞勝による修繕工事の後に天正7年(1579年)儲君誠仁親王の御所として提供してしまったのである。
そして、その3年後二条御所と呼ばれていた押小路烏丸殿は、本能寺の変で明智光秀の襲撃を受けて焼失、以後再建されること無く荒廃した。
「龍躍池」も江戸時代後期までは残滓が確認できるものの、現在ではその面影すら存在していない。