新選組 (Shinsengumi)
壬生新選組屯所跡
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代後期の幕末期に、主として京都において、反幕府勢力弾圧・警察活動に従事したのち、旧江戸幕府の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織である。
新撰組と表記された資料も多い。
局長の近藤勇自身、「選」「撰」の両方の字を用いている。
概要
幕末に設置された京都守護職である会津藩主、松平容保の配下に置かれた。
会津藩には武士身分で構成される正規治安部隊、京都見廻組(組長=佐々木只三郎)があり、農民・商人身分で構成される新撰組(組長=近藤勇)は、会津藩の京都における非正規治安部隊(後年は近藤らは幕臣になり正式な治安部隊になる)である。
新撰組はいわば“佐幕派の人斬り集団”(本当は捕縛することが目的なのだが、逃げようとしたり、斬りかかって来る不逞浪士があまりにも多かったため)であり、池田屋事件などで京都に潜伏する過激派尊皇攘夷論者や不逞浪士の取り締まりにあたった。
その一方で、近藤らは新撰組内部で凄惨な権力闘争を行い、敵対勢力を容赦なく殺害した。
内規に反した等として粛清された者は相当数にのぼり、一説には勤皇志士との斬りあいで死亡した者より、粛清で落命した者の方が多いともいう。
新撰組は、武士になることを宿願としており、目的達成のために武士に匹敵する活躍をしたため、特に現代の若者たちから幕末日本を象徴する存在とみなされ、根強い人気を誇る。
新撰組組員の墓参りをする女性ファンも多く、坂本龍馬ら勤皇の志士と共に“日本史のアイドル的存在”となっているが、明治政府がかれらと敵対する勤皇派志士たちによって設立された経緯もあり、近年まで史学的にもほとんど注目されることがなく、現在における人気は子母沢寛や司馬遼太郎らによる新選組をテーマにした数々の小説やTVドラマ・映画等の影響が大きい。
ただし、勤皇の志士たちを多く輩出した山口県などを出身とする人々には彼らを「幕府に雇われたテロリスト集団」として位置づける人もいる(松岡滿壽男参議院議員・当時の国会での発言より)。
隊の規律維持のために厳しい局中法度を定め違反者に対し粛清を行ったことや、「誠」の一字の隊旗や袖口に山形の模様を染め抜いた独特の羽織でも知られる。
結成
文久2年(1862年)、江戸幕府は征夷大将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集した。
庄内藩の郷士・清河八郎の建策を幕府が受け入れてのものだった。
翌年文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士達は将軍上洛に先がけ、浪士組として一団を成し、中山道を西上する。
浪士取締役には、松平忠敏、鵜殿鳩翁、窪田治部右衛門、山岡鉄舟、中条金之助、佐々木只三郎らが任じられた。
京に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が露見する。
浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。
これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張した。
鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。
これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退、殿内・家里は排斥され、同年3月、新選組の前身である「壬生浪士組」(「精忠浪士組」とも)が結成される。
その目的は公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することであった。
壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。
その結果36人余の集団となった壬生浪士組は、京都守護職・松平容保より、主に尊攘激派(勤王倒幕)浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任された。
同年8月に起きた八月十八日の政変に出動し、壬生浪士組はその働きを評価される。
そして、新たな隊名を拝命する。
ここに「新選組」が誕生した。
なお、隊名は武家伝奏(当時は野宮定功と飛鳥井雅典)から賜ったという説と、会津藩主・松平容保から賜ったという二つの説がある。
発展
文久3年9月、近藤・土方ら試衛館派は、芹沢ら水戸派を粛清して隊を掌握し、近藤を頂点とする組織を整備する。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では尊王攘夷派の蜂起の計画を未然に防ぎ、また、禁門の変でも戦った。
池田屋・禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩より感状と200両余りの褒賞金を下賜されると、元治元年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。
新選組は200人を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺(京都市下京区)へ本拠を移転する。
慶応3年(1867年)夏頃には幕臣に取り立てられる。
慶応3年3月、伊東らの一派は思想の違いなどから御陵衛士を拝命して隊から分派するが、同年11月、新選組によって粛清される。
解散
慶応3年11月に徳川慶喜が大政奉還を行った。
旧幕府軍と共に鳥羽・伏見の戦いに参戦するも、新政府軍に敗北。
その後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へと移動した。
新選組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ甲陽鎮撫隊へと名を改め出撃するも敗戦。
甲州勝沼の戦いの後、江戸に戻ったが、方針の相違から永倉新八、原田左之助らは分離して靖兵隊を結成した。
近藤勇、土方歳三らは再起をかけ、流山へ移動するも、近藤勇が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病であった肺結核の悪化により江戸にて死亡した。
新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、会津では斎藤一等が離隊する。
その後蝦夷共和国の成立を目指す榎本武揚らに合流し、二股口の戦い等で活躍する。
新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた新選組を助けようと土方歳三ら数名が助けに向かうが土方歳三が銃弾に当たり死亡し、食料や水も尽きてきたので新選組は降伏した。
旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した。
(箱館戦争)
文久3年
2月8日 (旧暦) 浪士組が江戸を出発、2月23日 (旧暦)に京都へ到着
3月12日 (旧暦) 会津藩お預かりになり、壬生浪士組と名乗る
3月25日 (旧暦) 殿内義雄刺殺
6月3日 (旧暦) 大坂の力士と乱闘
8月12日 (旧暦) 大和屋焼き打ち
8月18日 (旧暦) 八月十八日の政変
9月13日 (旧暦) 新見錦切腹(異説あり)
9月18日 (旧暦) 芹沢鴨、平山五郎が内部抗争で粛清され、平間重助脱出(異説あり)
9月25日 (旧暦) 壬生浪士組が新選組に名を改める
9月26日 (旧暦) 御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎、長州藩の間者として粛清
12月27日 (旧暦) 野口健司切腹
元治元年
元治元年5月20日 (旧暦) 内山彦次郎刺殺
元治元年6月5日 (旧暦) 池田屋事件 安藤早太郎、新田革左衛門ら負傷し1ヵ月後死亡、奥沢栄助戦死
元治元年6月10日 (旧暦) 明保野亭事件
元治元年7月19日 (旧暦) 禁門の変
元治元年8月頃 近藤勇の態度に遺憾を感じた永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁、尾関雅次郎らが会津・松平容保に非行五ヶ条を提出。
元治元年10月27日 (旧暦) 伊東甲子太郎ら新選組に入隊
慶応元年
慶応元年1月8日 (旧暦) ぜんざい屋事件
慶応元年2月23日 (旧暦) 山南敬助切腹
慶応元年3月10日 (旧暦) 西本願寺へ屯所を移す
慶応元年9月1日 (旧暦) 松原忠司死亡
慶応2年
慶応2年2月15日 (旧暦) 河合耆三郎切腹
慶応2年4月1日 (旧暦) 谷三十郎死亡
慶応2年9月12日 (旧暦) 三条制札事件
慶応3年
慶応3年3月20日 (旧暦) 伊東甲子太郎、藤堂平助ら13人離隊
慶応3年6月10日 (旧暦) 幕臣取り立てが決まる
慶応3年6月15日 (旧暦) 不動堂村へ屯所を移す
慶応3年6月22日 (旧暦) 武田観柳斎刺殺
慶応3年11月18日 (旧暦) 油小路事件 伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄ら刺殺
慶応3年12月7日 (旧暦) 天満屋事件
慶応3年12月18日 (旧暦) 近藤勇が狙撃され負傷
慶応4年
慶応4年1月3日 (旧暦) 鳥羽・伏見の戦い 隊士2名が戦死
慶応4年1月5日 (旧暦) 淀千両松の戦い 井上源三郎ら14名戦死
慶応4年1月6日 (旧暦) 橋本の戦い 隊士4名が戦死
慶応4年1月10日 (旧暦) 新選組、軍艦富士山 (軍艦)と順動丸で江戸に向かう 途中山崎烝死亡(異説あり)
慶応4年3月6日 (旧暦) 甲州勝沼の戦い 隊士2名が戦死
慶応4年3月12日 (旧暦) 永倉新八、原田左之助ら靖兵隊となり離隊
慶応4年3月13日 (旧暦) 五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬 (足立区)四丁目)の金子家を中心に屯所を設営して滞在(4月1日まで)
慶応4年4月2日 (旧暦) 下総流山に陣を敷く
慶応4年4月3日 (旧暦) 近藤勇、新政府軍に投降する
慶応4年4月12日 (旧暦) 土方歳三、旧幕府軍に加わる
慶応4年4月19日 (旧暦) 宇都宮城の戦い
慶応4年4月25日 (旧暦) 近藤勇、板橋で斬首
慶応4年4月25日 (旧暦) 白河口の戦い
慶応4年5月17日 (旧暦) 原田左之助死亡(異説あり)
慶応4年5月30日 (旧暦) 沖田総司、肺結核により死亡
慶応4年8月21日 (旧暦) 母成峠の戦い
慶応4年8月24日 (旧暦) 斎藤一、池田七三郎ら13人会津に残留
明治元年10月26日 (旧暦) 旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城する
明治2年
明治2年4月13日 (旧暦) 二股口の戦い
明治2年4月24日 (旧暦) 二股口の戦い
明治2年5月5日 (旧暦) 市村鉄之助箱館脱出
明治2年5月11日 (旧暦) 一本木関門付近で土方歳三戦死
明治2年5月14日 (旧暦) 相馬主計新選組局長就任 弁天台場の新選組、降伏する
明治2年5月18日 (旧暦) 旧幕府軍降伏 戊辰戦争終結
局中法度・内部粛清
局中法度(局中法度書)は「軍中法度」と並び新選組の規律維持のために定められたとされている。
成立は会津藩預となった浪士組時代に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。
法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の粛清の際にも適用されたといわれる。
第一条「士道ニ背キ間敷事」など抽象的な内容で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。
鳥羽伏見の戦い以前に、新選組隊内において粛清された隊士は初代局長芹沢鴨や新見錦らを含めて41名である。
子母沢寛の著書『新撰組始末記』で紹介されて以来、有名となり、以下の5ヶ条として知られるが、同時代史料にはこれを全て記録した物は現在までのところ発見されていない。
しかし、明治になってから永倉新八が残した回想録には、法度「禁令」という物があり ここには「私ノ闘争ヲ不許」を欠く4ヵ条が示されている。
そのため、局中法度とは、この禁令に、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢が創作したものと推測されている。
また、天然理心流入門の際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也
治安維持
後述する数々の創作物の影響もあり、幕末、京都の治安維持の主力を担っていたのは新選組であるとの認識も一般には強いが、実際は重要な御所近辺は会津直轄隊の精鋭2000人、その周りは幕臣で構成される見廻組500人が固めていた。
新選組はというと200人で伏見区(当時は京都とは別の町であった)などを担当していた。
もっとも京都見廻組などが律儀に管轄を守っていたのに対し、新撰組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。
装備
羽織
袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色(薄い水色)の羽織を着用していたとされ、映画などでは隊士はほとんどこの姿で表される。
羽織のダンダラは忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りするときに着ていた羽織の柄で、浅葱色は武士が切腹の時に着る切腹裃の色だと伝えられているが、羽織は実際には最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。
作ったのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。
一説では、大文字屋では無く「呉服問屋・菱屋」と言う話もある。
また、誠の文字を染め抜いた隊旗は高島屋で作ったと言われている。
隊旗
赤地に白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的。
「誠」という字が旗が揺れたときに、近藤の実家「試衛館」の「試」に見えるからという理由も隠されているらしい。
近藤派の存在を大きくしたかった土方の野望だとも言われる。
他にも隊旗があり全部で6種類あるとされている。
また、その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。
この旗は現在の高島屋にあたる古着・木綿商によって特注で製作されたものである。
組織
新選組は局長を頂点に副長が補佐し、以下に副長助勤・監察方(諜報)・勘定方(会計)などを配置した。
副長助勤は組長として平隊士を統率した。
各組は一番から十番まであり、各組の人員は十人前後。
また、組長の下に伍長を置いた。
なお、新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり洋式軍制などの影響が指摘されている。
隊士達は日常的には武術の稽古や京都市内の見回りや潜伏している浪士の探索などを行った。
剣術集団である新選組は、中心となる近藤ら試衛館の天然理心流に加えて神道無念流剣術、北辰一刀流剣術などさまざまな剣術流派に加え、槍術や柔術などを学んだ隊士もおり、実戦本意の集団戦法の集団であった。
結成当時には財政難であったと推測されるが、京都守護職配下時代は、隊の運営資金を会津藩からの御用金で賄っていた。
また、一部は豪商などから提出させた。
その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。
諸々の事件への出動により報償金が下されることもあった。
以下に構成員。
新選組の隊名を用いる以前(壬生浪士組)の時期を含む。
医師
幕府西洋医学所頭取の医師である松本良順は近藤勇の招きで隊士の診察を行い、戊辰戦争でも軍医を務めた。
なお、松本良順は新選組にブタを飼うようすすめ、西本願寺駐屯時に神戸から子豚を持ち込み養豚させ(餌は残飯)、豚肉を隊士に食べさせていた。
解体は木屋町の医者南部精一の弟子に頼んでいたという。
新選組を題材にした作品
新選組を主題としたもののみを掲げる。
幕末を扱った作品には敵役などで登場する事が多い。
薩長中心の明治新政府が成立すると、太平洋戦争の戦前までは皇国史観の元、勤皇志士の敵である新選組は悪役として扱われる事が多かった。
昭和初期に子母沢寛が新選組3部作を発表すると認識が広まり、戦後の価値観の転換で新選組が主役に扱われる事も多くなり、各隊士にもスポットが当てられ創作がされるようになった。
また、その余波により、時代設定を変えて、新選組の枠組や有名隊士らをモチーフにした創作も数々生まれた。