日本の首都 (Capital of Japan)
この項では日本の首都(にっぽんのしゅと、にほんのしゅと)について記述する。
概要
首都とは国中一番のみやこ、帝城、中央政府のある所、首府のことである。
日本で「首都」という語が一般化したのは第二次世界大戦後のことであり、戦前から戦後しばらくまでは「主都」(プライメイトシティ)を「首都」と記述する事例もおおく明確な区別はなかった。
現在の概念にあたる首都は1868年(明治元年)以来、主に「帝都」と称され、1950年(昭和25年)の「首都建設法」制定以降になって「首都」の語が普及した。
日本の首都にあたるみやこは有史以来、畿内(現在の近畿地方)で遷都してきた。
794年に桓武天皇により定められた平安京以来、遷都宣言により法令、憲法または現行法などで直接的な表現で定めたものはない。
しかし、現在の首都は一般的には「首都建設法」(昭和25年法律第219号:廃止)により定められた東京都であるとされている。
「首都圏整備法」(昭和31年法律第83号)では、東京都が首都であることを前提に、東京都の区域及び政令で定めるその周辺地域(首都圏整備法施行令により、埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県及び山梨県)を首都圏と定めている。
首都建設法は1956年(昭和31年)に廃止されており、現在有効な法(現行法)で「首都は東京都」と直接的な表現を用いて定めるものはない。
しかし東京都が首都とみなされる理由としては、日本国憲法で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定される天皇が常在し、皇居が東京都に所在すること、同じく憲法で国会(立法府)、首相官邸や中央省庁(行政府)、最高裁判所(司法府)という三権の最高機関のいずれもが東京都(中でも千代田区)に所在することが挙げられる。
国会召集の詔書には、国会議事堂が所在する「東京に召集する」と書かれる。
また、国際的にも東京都が日本の首都とみなされている。
国内の統計等では23の特別区(23区)が「東京」という1都市であるかのように扱われることが多い。
一般にも東京都のうち23区を東京都内、その他の市町村を東京都下と区別することもある。
これは23区が旧東京市に相当することに由来するもので、現在では23区を一体とし自治権を有する行政単位は存在しない。
一方、自治体としての東京都が公式に用いている「東京都」の英称は " Tokyo Metropolis" (metropolisは首都・首府・大都市、あるいは主要都市・中心市)で、都知事は "Governor"(知事)として国際会議に出席するなど、東京都という1つの自治体で都市の扱いになっており、対外的に23区と多摩地域や島嶼部を分離する意味はない。
このように、国内的には中枢的な首都機能が集中する23区に限定して首都とすることもあるが、対外的には多摩地域や島嶼部を含めた東京都全域をもって首都とする例が多い。
古くは京都や奈良、及びその周辺に都(みやこ)が置かれていたことが多く、山城国、大和国、摂津国、河内国、和泉国(京都府の一部、奈良県、大阪府、兵庫県の一部)は併せて畿内(「畿」はかきね・門の内側。
天子が直隸する帝都から五百里以内の土地)と呼ばれていた。
現在でいう首都圏と同義である。
多様な首都の認識
日本では歴史上天皇による朝廷の他に、国際的には時に「日本国王」「日本国大君」とも称された征夷大将軍による幕府のような武家政権が存在したことや、東京と京都の両京制などの面から首都の議論があり、様々な首都論・首都認識がある。
辞典による日本の首都
平安遷都など歴代の遷都をそのまま首都の移動とするもの。
明治2年に東京城(江戸城)が皇城とされ太政官が東京に移されたことと、明治4年府県の順序で東京が第一とされたことで東京が首都の地位を得たとするもの。
天皇・都に注目したもの
京都も東京も帝都だが、本来首都は京都であり、東京は施政の便宜上天皇がいる場所だというもの。
東西の帝都である東京と京都が並立して首都とするもの。
江戸時代の首都は将軍の任命が行なわれた京都であり、幕府があった鎌倉・江戸は首都ではなかったとするもの。
首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだとするもの(1996年の橋本龍太郎内閣総理大臣の国会答弁)。
首都機能・武家政権に注目したもの
平氏政権による福原京の計画が平安京との複都構想だったとし、また鎌倉幕府の置かれた鎌倉が、京都と首都機能を分担した事実上の複都制であるとするもの。
江戸は政府の所在地で首都と意識されていたが、幕末に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが東京に移ったとするもの。
江戸時代に江戸は政治・行政の中心と認識され、首都として機能もし、外国人も江戸を首都と認識していたとするもの。
1719年の朝鮮通信使申維翰の『海遊録』によれば、都(首都)は初め大和にあり、その後豊臣秀吉が大坂に、徳川家康が江戸に移したと認識されていたという。
法的根拠
2009年(平成21年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。
そこで、旧法、現行法及び慣習法の読み方によって、東京(東京都)を唯一の首都と解さない論者もいる。
論争に登場する主要な立法およびその解釈について列記する。
1868年(明治元年)、天皇が京都から東京へ行幸するに際して発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書には、「首都」の語はない。
首都を意味する「京」を地名に付したことから、この詔書によって、東京を首都に定めたと見るのが有力だが、反論もある。
この詔書の趣旨について、東京を京都と並び首都とすること(複都論)を定めたに過ぎないと解する立場がある。
江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(明治元年7月17日)
朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ
1923年(大正12年)に発せられた関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日)では、東京がすでに首都であることを既定のこととして記載された文言が出てくる。
関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日)
…抑モ東京ハ帝国ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸トナリ国民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我国都タル地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ将来ノ発展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルヘカラス…
1943年(昭和18年)に制定された東京都制(昭和18年法律第89号)では、「効率的な首都行政を行うことを目的とする」と、立法段階で説明されている。
ただし、地方自治法において、「都」制度が道府県制度と並び規定されているが、都制度の適用があるのは、現在の東京都を区域とする地方自治体に限定されるとは規定されず、また、いわゆる首都の所在地の自治体に適用されるという規定もない。
例えば大阪府を「大阪都」に改めることもあり得るとされている。
1950年(昭和25年)には、東京都を日本の新しい首都とすることが明確に定められた首都建設法が制定された。
同法は、当時数多く制定された特別都市建設法の一つである。
首都建設法(昭和25年法律第219号)
第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。
第十二条 東京都の区域により行う都市計画事業については、東京都が国の首都であることにかんがみて必要と認めるときは、建設省、運輸省その他その事業の内容である事項を主管する行政官庁がこれを執行することができる。
この場合においては、東京都及びその区域内の関係地方公共団体の同意を得なければならない。
のちに同法は廃止されたが、廃止理由は、東京都が首都でなくなったからではなく、あくまで同法の目的(首都の建設)が達成され、整備の対象を「首都」から「首都とその周辺地域」に広げるための発展的なものであり、後継の首都圏整備法とは連続性、一体性を有するものである。
そのため、新規に廃止法を制定するのではなく、後継法の附則により廃止する形を採った。
首都圏とは「首都+圏(その周辺地域)」のことであるが、後継法では「首都」部分は前身法で既に首都と定めた「東京都」と明確に定めることで、その変更には国会の議決を義務付け、「その周辺地域」部分は下位法令(政令)に委任することで、国会の議決なく柔軟に変更できる余地を残す形で、前身法の首都の定義を継承している。
首都圏整備法
(定義)
第二条 この法律で「首都圏」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう。
附則
(首都建設法の廃止)
4 首都建設法(昭和二十五年法律第二百十九号)は、廃止する。
皇居の所在地(=首都とする説)の変遷
歴史上、日本の首都は、天皇の住まいである皇居の所在によって定められた。
古墳時代以降は、皇居のための宮殿(御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。
宮殿や貴族の邸宅であっても、奈良時代までは基本的に掘立柱建物だったため、建物の耐用年数が短かった。
同じ掘立柱建築である伊勢神宮の遷宮は20年に1回である。
古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。
中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京・平城京・平安京などでは、計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。
飛鳥宮(飛鳥時代)以前に、首都に相当する都城は存在しない。
奈良時代に編まれた記紀によれば、歴代大王 (ヤマト王権)の宮室が磯城 ・磐余(奈良県桜井市)のほか、難波 ・河内国地方(大阪府)などに複数営まれたため、各々の宮室を中心に萌芽的な都邑が形成されていたことも考えられる。
しかし、その具体的な遺構は未発見である。
記紀に見える宮室については、「皇居歴代の皇居」を参照。
なお、飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき複都制(陪都)が設けられていた時期があった(首都世界の首都)。
例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。
保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた。
平安時代末の福原京を首都とみなせるか否かについては近年議論がある。
首都否定論の立場からは、『平家物語』などの文学作品に語られる「福原遷都」の実態については、平氏政権が和田(神戸市)方面への遷都を目的として福原に行宮を置いたに過ぎず、それによって平安京が従来の首都機能を失った様子も特に見られないことから、建前はどうあれ、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張がある。
実際、福原への遷都宣言が出されたことはなく、行宮滞在中も行事は京都で行われている上、遷都計画が頓挫した後は、京都を首都とする方針が政権中枢にて決定されている。
これに反し、福原には朝堂院や官衙の整備計画も持ち上がったが、結局実行されなかった(『玉葉』治承4年7月16日条・8月4日条・11日条・29日条)。
南北朝時代 (日本)(1336年 - 1392年)は、「観応の擾乱正平一統」(1351年 - 1352年)の短期間を除き平安京が北朝 (日本)の首都である。
ただし、南朝 (日本)の本拠は全て行宮、すなわち仮の拠点として扱われ、正式な首都は平安京と見なしていたと推測される。
日清戦争中の1894年には、広島県広島市に明治天皇が行幸して、大本営も移った。
帝国議会も開催されるなど、一時的に首都機能が移転し、臨時首都の様相を呈した。
太平洋戦争末期の1944年には、皇居と大本営を長野県松代町 (長野県)(現長野市)に移転させる計画が大日本帝国陸軍により始められたが、敗戦により中止された(松代大本営)。