日本国王 (King of Japan (Nihon Kokuo))

日本国王(にほんこくおう)とは、中世期から近世期において特に武家政権の長が対外的に使用した日本の統治者の称号である。
室町幕府3代将軍足利義満が、明皇帝から「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」の封号を与えられ、日本国王に冊封されて以降、室町将軍の外交称号として使用された。
また、現代朝鮮半島で天皇の事をこう呼ぶこともある。

足利義満以前

中国の史書では、日本の統治者を「倭王」と称していたが、唐代以後、「日本国王」号が使用されるようになる。
『唐丞相曲江張先生文集』には「勅日本国王書(にほんこくおうにちょくするのしょ)」と記されている。
また、『元史日本伝』には、1266年、元 (王朝)朝皇帝フビライ・ハーンから「日本国王」に送った国書がある。
しかし,両者とも天皇を呼んだものである。
また、南北朝時代 (日本)時代には、懐良親王が倭寇の取り締まりを条件に明朝から冊封を受け、「良懐」の名で日本国王の称号を受けている。
懐良親王の勢力が駆逐された後は、幕府や九州の大名が「日本国王良懐」と称して対明貿易を行う変則状態が続く。

義満と日本国王冊封

足利義満は、日明貿易の一元支配を望み、数次にわたって使節を送る。
明朝側としても倭寇を取り締まる能力のある日本の支配者との通交の必要はあったものの、儒教復興が叫ばれていた当時、足利氏が日本の君主ではなく「持明」(持明院統の天皇の事。明朝は「持明」を「良懐」(懐良親王)と日本の王位を争っている人物名と解釈していた)の臣下の「将軍」にすぎないことを理由に、通交を拒否していた。
しかし、1380年に発覚した明の左丞相(大臣)胡惟庸の謀叛と、当時辞官出家していた義満が、天皇の臣下という立場をとらずに通交を試みようとした。
その結果、1401年(応永8年)、「日本准三后道義」の表文を携えて派遣された使節はついに目的を果たし、「日本国王源道義」宛の建文帝(在位1398年~1402年)の詔書を携えて明使とともに帰国した。
義満は北山山荘に明使を鄭重に迎え、自ら拝跪して詔書を受けたという。

ところが、明使の滞在中、靖難の変(1399年~1402年)により成祖永楽帝(在位1402年~1424年)が即位。
義満は永楽帝に宛てて国書を送った。
即位して間もなく、簒奪者との謗りも受けていた永楽帝は、「外夷」からの使節の到来を自らの天子としての徳を証明するものとして喜び、義満に「日本国王之印」と通交に必要な勘合符を与えた。

こうして義満は「日本国王」の称号を獲得し、中華皇帝に臣従する外臣として認知され、国際的な国王として承認された。
これにより足利家が勘合貿易の主導権を握った。

義満以後

義満の死後、4代将軍となった足利義持は明と断交するが、6代将軍足利義教が国交を再開。
国王号も復活した。
これに伴い、朝鮮からの来書にも将軍を日本国王と称したが、日本側では、「日本国源某」の称号を用いた。

安土桃山時代、文禄の役の講和折衝にあたり、明の神宗万暦帝は豊臣秀吉に誥命を送った。
その中に、「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」の一文があり、秀吉は冊封を拒否して慶長の役に突入した。
なお、激怒した秀吉が誥命が書かれた国書を破り捨てたとされる話が伝えられているが後世の創作である。
実際には国書を下げ渡された堀尾吉晴が保管しており、現在も重要文化財(「綾本墨書 明王贈豊太閤冊封文」)として大阪歴史博物館に所蔵されている。

江戸幕府2代将軍徳川秀忠は李氏朝鮮との国交修復を図り、対馬藩主の宗氏に交渉を命じた。
しかし宗氏は国書を偽造し、その国書において将軍の肩書きを「日本国王」とした。
しかしこの偽造は寛永10年には発覚し(柳川一件)、幕府はこれ以後将軍の肩書きとして「日本国大君」の称号を使用した。
徳川家宣の時代には新井白石の建議で一時的に「日本国王」を用いたことがあったが、徳川吉宗はふたたび「大君」号に改め、以降全ての将軍は「大君」号を使用した。

明治時代以降は天皇が最高権威者となり、対外的にも「日本国皇帝」もしくは「日本国天皇」の号を用いたために「日本国王」号は用いられることが無くなった。

朝鮮半島における天皇の呼称

朝鮮半島では、長らく中原を治める天子を皇帝と仰ぎ、それが唯一「wikt皇」の文字を使用できる存在として見てきた。
それゆえ、自らの王や周辺諸国の王が「皇」の文字を使用する事は道理に反するとして認めず、天皇の事を「日本国王」「wko일본_천황」などと呼んできた。
それは現在でも続いており、公式な場以外のマスコミなどでは未だに「日王」と呼ぶか「天皇」と呼ぶかで意見が分かれており、大半は「日王」表記が主である。
このことについて朝鮮の小中華思想を指摘する声もある。

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