日露戦争 (Russo-Japanese War)
日露戦争(にちろせんそう、露語 ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月6日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国(ロシアと同盟していたモンテネグロ(当時はモンテネグロ公国)も宣戦布告するも、実際の戦闘には参加せず)との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争である。
戦争目的と動機
三国干渉および北清事変後中国東北部(満州)を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障と半島での利権を確保することを目的とした戦争。
中国遼東半島の旅順、大連租借権等の確保と中国東北部および朝鮮における自国権益の維持・拡大を目的とした戦争。
ロシアと日本の対立の場となった朝鮮半島
大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。
ロシアは閔妃を通じ売り払われた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。
当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1904年2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。
大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。
一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。
日英同盟
ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争 (1877年)などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。
ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相オットー・フォン・ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議 (1878年)を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約 (1878年)の締結に成功した。
これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。
近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。
朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。
世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。
ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連市を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていった。
1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、全土を占領下に置いた。
ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。
ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。
日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。
1903年4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵無鄰菴会議」が行われた。
桂は、「満州問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。
桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。
直前交渉
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。
さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。
常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。
セルゲイ・ヴィッテ首相は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ、戦争回避論を展開したが、これは皇帝達によって退けられた。
ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本側では、この提案では朝鮮が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。
またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるの。
その前の対露開戦へと国論が傾いた。
そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのロマン・ローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
ロシア側にとって、この通告がいかに突然であったかを知るには、ローゼン公使の対応を見てもわかる。
ローゼンは戦争が起きるとは想像していなかったらしく、この国交断絶通告を受け取った際、「この通告が戦争を意味するものか」と小村寿太郎に聞いた。
ニコライ2世も「わがロシア帝国と日本との戦争は有り得ない。なぜなら朕がそれを欲しないから」といい、日本は戦争を決断しないだろうと考えていたという。
これに対し小村寿太郎は、「この行為は戦争を意味するものではない」と返答。
(司馬遼太郎『坂の上の雲』より)この返答は、国際法上の解釈から言えば違法と言えるものではないが、この状態ではどの外交ルートもあるわけではなく、実質的には戦争開始の通告である。
かくしてニコライ2世は、1904年2月10日、アレクセーエフに対し日本との戦闘行為を容認。
戦争を決断した。
各国の思惑
南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行った。
露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側であったが具体的な支援は行っていない。
戦費調達
戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心した。
開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。
是清はまず渡米するもアメリカの銀行家からはまったく相手にされなかった。
次いで渡英して、額面100ポンド (通貨)に対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件を提示。
イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができた。
直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ合衆国のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。
一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利した。
国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達した(当時の国家予算は約7億円)。
開戦時の両軍の基本戦略
日本側 陸軍は第一軍で朝鮮半島へ上陸、鴨緑江を渡河しつつ、在朝鮮のロシア軍と第一会戦を交えた後に満洲へ進撃。
第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。
そののち、満洲平野にて第三軍、第四軍を加えた四個軍でもって、ロシア軍主力を早めに殲滅する。
のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。
海軍は旅順及びウラジオストックにいるロシア太平洋艦隊を黄海上にて殲滅した後に、ヨーロッパより回航してくるバルチック艦隊と決戦し、殲滅する。
軍令機関が陸海軍並列対等となった初めての戦争であることに留意。
ロシア側 黄海の制海権確保の前提に基づき、日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。
鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。
失敗した場合は日本軍を引き付けて、順次ハルビンまで後退して、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。
開戦
日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(太平洋艦隊 (ロシア帝国海軍))に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。
この攻撃ではロシアの戦艦に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。
同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団 (日本軍)木越旅団が朝鮮の仁川広域市に上陸した。
瓜生外吉少将率いる日本海軍第三艦隊 (日本海軍)の巡洋艦群は、同旅団の護衛を終えたのち、2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグ (防護巡洋艦)と砲艦コレーエツ (航洋砲艦)を攻撃し損傷を与えた(仁川沖海戦)。
2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。
ロシア旅順艦隊は日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。
もしロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)が極東に回航して旅順艦隊と合流すれば戦力は圧倒的となり、制海権はロシアに奪われることになる。
連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。
4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスク (戦艦・初代)を撃沈、旅順艦隊司令長官シュテファン・オシュポヴィッチ・マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島 (戦艦)」と「初瀬 (戦艦)」がロシアの機雷によって撃沈される。
一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊を展開する。
4月25日には日本軍の輸送艦金州丸を撃沈するなど、日本近海を縦横無尽に行き来した。
これを追う日本の上村中将率いる第二艦隊 (日本海軍)を右往左往させ、船舶による補給に頼る日本軍を悩ませた。
黄海海戦・遼陽会戦
黒木為楨大将率いる日本陸軍の第1軍 (日本軍)は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。
続いて奥保鞏大将率いる第2軍 (日本軍)が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。
南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。
東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。
第二軍は大連市占領後、第1師団 (日本軍)を残し、遼陽を目指して北上した。
6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。
6月6日、乃木希典大将率いる第3軍 (日本軍)が大連に上陸した。
しかし、陸軍の旅順攻略参戦を頑なに拒む海軍の意向を受け、満洲軍総司令部の指示により旅順に向けて漸進を余儀なくさせられる。
海軍陸戦隊が旅順要塞への砲撃を開始した。
これを受けて旅順艦隊は旅順から出撃、8月10日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊との間で黄海海戦 (日露戦争)となった。
この海戦で連合艦隊は旅順艦隊の巡洋艦3隻他を撃沈したが、主力艦を撃沈することはできなかった。
そのころロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていた。
8月14日、上村彦之丞中将率いる日本海軍第二艦隊は蔚山沖でようやくウラジオストク艦隊を捕捉し、大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。
他方陸軍は7月の大本営通達を受けて、第三軍は旅順攻囲戦の第一回総攻撃を8月19日に開始した。
だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大きな損害を受け失敗に終わる。
8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第4軍 (日本軍)は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。
8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。
ロシア軍の司令官アレクセイ・クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。
10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗に終わる(沙河会戦)。
こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。
旅順攻略
第3軍 (日本軍)は旅順攻囲戦を続行中であったが、旅順要塞に対する10月26日からの第二回総攻撃は失敗し、11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥る。
戦況を懸念した満州軍 (日本軍)総参謀長兒玉源太郎大将は、大山巌元帥の指示を受け旅順方面へ着任。
大本営と海軍の執拗な主張を受け入れ、攻撃目標を要塞北西の203高地に絞り込む。
日露両軍ともに戦死5,000、戦傷者10,000以上を出す激戦のすえ、第三軍は12月4日に203高地を占領し、ロシア軍は戦力を決定的に消耗した。
その後第三軍は、満洲軍総司令部の当初からの攻撃目標であった要塞東北正面の堡塁群を攻略し、1905年1月1日にロシア軍旅順要塞司令官のアナトーリイ・ステッセリ中将は降伏した。
沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したオスカル・フェルディナント・グリッペンベルク大将の主導のもと、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。
一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。
2月には旅順攻略を完遂した第三軍が戦線に到着した。
奉天会戦
日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。
2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。
3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。
ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。
3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。
日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。
一連の戦いで両軍とも大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。
日本海海戦
戦争の決着をつけたのは海戦であった。
バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。
そして、地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突した。
連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅した。
なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行った。
バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝であった。
世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。
この結果、日本側の制海権が確定した。
樺太攻略
日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。
この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。
講和へ
ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件 (1905年)が発生していた。
日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけた。
日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。
両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入した。
戦費のほとんどは戦時国債によって調達された。
当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達した。
戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及んだ。
なお開戦時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。
結果的に、そのレーションの不備と輸送能力・インフラ整備の問題(輸送中に一万石の挽割麦の大半が変敗したという記録がある)等により、陸軍は約25万人の脚気患者を出し、うち約2万7,800人が病死したとされる。
また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さらに大本営の大本営組織、小池正直(陸軍省医務局)に対する批判が高まった。
戦後も小池が辞任するまで『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづいた。
脚気の原因がわからなかった時代の日清・日露戦争は、まさに脚気との闘いでもあった。
(脚気ビタミン欠乏説が確定していた昭和期も、1938年まで毎年、国民の脚気死亡者数が1万人から2万人の間で推移しており、脚気が完全に根絶されたのは1952年以降)。
陸軍とは対照的に麦飯を用いた海軍では、脚気死亡者がほとんどなかった。
ただし、兵食の問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)等により、海軍の脚気患者は、1928年1,153人、1937年から1941年まで1,000人を下回ることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人の脚気患者が出た。
日本
ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。
こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなった。
またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。
ポーツマス条約の内容は、賠償金を取れないなど、多くの国民にとって予想外に厳しい内容だった。
そのため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるに至った。
これは、ロシア側へいかなる弱みともなることをも秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民期待を否応なしに煽ったために修正がきかなくなっていたこともあり、国民の多くは戦争をしている国力の実情を知らされず、目先の勝利によってロシアが簡単に屈服させられたように錯覚した反動から来ているものである。
この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い、日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。
日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であった。
そのため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある。
ファイル永久防塁
また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えた。
1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。
だが、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非を巡って有名な2個師団増設問題が発生することになった。
日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久堡塁 (習志野)と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究した。
上記のようなエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。
この戦争により、陸軍においては白兵突撃至上主義が、海軍においては艦隊決戦至上主義が確立され、後の太平洋戦争まで両者共に大きく影響を及ぼすことになる。
なお、賠償金が取れなかったことから、日本帝国はジェイコブ・シフのクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなった。
「日露戦争で最も儲けた」シフは、ロシア帝国のポグロム(反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちレーニンやトロツキーにも資金援助をした。
ロシア
伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を期に極東への南下を断念した。
南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。
このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリアとの対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。
また、戦争による民衆の生活苦から血の日曜日事件 (1905年)やポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)の叛乱等より始まるロシア第一革命が誘発され、ロシア革命の原因となる。
李氏朝鮮(大韓帝国)
開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していた。
日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。
ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。
西欧
日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。
既に締結されていた英仏協商と併せて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況だった。
それが、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟 (1882年)の対立へと向かった。
こうしてイギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大してゆく。
アメリカ
アメリカ合衆国はポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいた。
しかし、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。
以後もアメリカは「門戸開放政策」を掲げて中国進出を意図したが、結局上手くいかず、対日感情が悪化する。
これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となった。
当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞した。
清朝
日露戦争の戦場であった満州(東三省・現在の中国東北部)は清の主権下にあった。
満州族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。
開発も最南部の遼東半島・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れた。
そのため、東清鉄道やハルピンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。
さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。
1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。
しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。
終戦後は、日本は当初唱えていた満洲に於ける列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。
こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努めた。
そして、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。
ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4千人から1783万6千人まで膨れ上がっている。
さらに同年には袁世凱の北洋軍閥の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。
また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。
また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、ついに1932年には自身の傀儡国家である満州国を建国した。
太平洋戦争で日本が敗れて撤退すると、代わって進駐したソ連が満洲侵略に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。
中華人民共和国が中国東北部を完全に掌握したのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。
その他各国
当時、欧米列強の支配下にあり、後に独立した国々の指導者達の回顧録に下記のような、植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる。
「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」
また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、 これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。
そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える。
また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。
いずれにしても日露戦争における日本の勝利が及ぼした世界的影響は計り知れず、歴史的大事件であったことには変わりない。
日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まった。
清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝におけるイラン立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、インド帝国におけるインド国民会議国民会議カルカッタ大会等に影響を与えている。
発行物
特殊切手として(1906年4月29日)、1銭5厘、3銭の切手が発行された。