昌泰の変 (Shotai Conspiracy)

昌泰の変(しょうたいのへん)は、901年(昌泰4年)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件である。

一般的にその背景には時平と道真の確執が主な理由とされるが、それだけが理由ではない。

宇多上皇(程なく宇多法皇になる)は醍醐天皇に譲位した後も、『寛平御遺誡』という君主の心構えを新帝に説くばかりでなく、道真を始め源善・中納言源希・蔵人頭平季長・侍従藤原忠平といったいわゆる「寛平の治」の推進役だった一種の側近集団を新帝の周囲に配置して新帝の政策を主導しようと図った。
これに対して時平や大納言源光 (公卿)ら上級貴族のみならず、藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら中下級貴族を含めた激しい反発があったともいわれる。
やがて、宇多法皇が道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が流れると、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた醍醐天皇と藤原時平、藤原菅根(折りしも病死した平季長の後任の蔵人頭に就任していた)らが政治の主導権を奪還せんとしたのである。

この政変で道真・善(出雲国権守に左遷)を排斥、変の直後に連座を免れた源希も病死、同じく藤原忠平も政治の中枢から事実上追われることになり、醍醐天皇・藤原時平派の政治的勝利に終わった。
天皇や時平は「延喜の治」と呼ばれる自らが主導するの政治改革を目指すものの、変からわずか8年後に時平が急死、続いて醍醐天皇も病気がちとなり、政治権力の中心は再度宇多法皇と藤原忠平の手中に帰する事になった。

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