時服 (Jifuku (Clothes of the Season))
時服(じふく)は、毎年、春と秋とに、または夏と冬とに、朝廷から皇親以下諸臣に賜った衣服である。
皇親に賜わるのをとくに王禄と呼び、特に対象を女王 (皇族)とする場合には女王禄と称した。
概略
「禄令」には、皇親で年13以上のものに時服の料として、春は絁(あしぎぬ)2疋、糸2絢、布4端、鍬10口、秋は絁2疋、綿2屯、布6端、鉄4挺をたまうという規定がある。
本来、皇親と言えども官職についていない者及び品位が授けられていない者(とりわけ内親王などの女性皇族)を経済的に保護する目的があった。
なお、官職についている皇親が五位以上に達した場合は季禄と比較して多い方を支給した(『令義解』、ただし『延喜式』には両方支給するとしている)。
延暦6年には六位の諸王が六位の官職に就いた場合は、その官職の季禄を七位以下の場合は季禄に代わって時服料を授けた。
同20年には官職についている皇族で上日が不足して季禄が支給されない者には時服料を支給された。
臣下に対する時服は特定の者に対する褒賞の意味合いで臨時に支給される例もあった(『続日本紀』天平宝字4年11月20日 (旧暦)条)。
大同 (日本)3年9月20日 (旧暦)詔によって、以後には諸司にも時服を給わることになり、当初は12月から5月までを夏の時服、6月から11月までを冬の時服とし、長上番上および上日が120日以上の者、諸衛は番上80日以上の者、侍従次侍従夜40日以上の者、中務丞内舎人夜50日以上の者に給わった。
しかし、その後これを改め、大同4年詔して、文官の番上日数を諸衛と同一とし、初任者給与にかんする規定をさだめた。
弘仁3年、女官職五位以上の者にたいして、大同年間時服支給を停止されたのを復旧し、弘仁11年、式をさだめ、時服給与にかんする細則を規定した。
貞観 (日本)12年、豊前王の建議をいれて、王氏で禄を賜う者を429人に限定したが、『延喜式』では、さらに女王にも262人に限定し、いずれも欠員の生じたばあいにのみ、補充されることになった。
また、『延喜式』には諸王年12以上に時服を賜うこととし、2世王は絹6匹、糸12絢、調布18端、鍬30口とし、4世王以下は令のごとしとされた。
秋、冬のときは綿を糸のかわりに、鉄2挺を鍬5口にかえることとした。
諸王で出家した者は時服を給するのを停止することにさだめられ、諸司の給与人員と布帛の数量などが規定された。
のちにこのことはすたれ、わずかに白馬の節会の翌日正月8日、新嘗祭の翌日11月中巳日に女王禄(3文字をオウロクとよむのが慣習)という式がおこなわれるにすぎなくなった。
これは紫宸殿中庭で、禄は人別に絹2疋、綿6屯であった。
天皇が出御し、皇后をはじめ女御内侍司以下これに列し、女王は世をもって次とし、長幼にはよらず、幄座につく。
官人が名簿を執って名を喚び、女王は称唯(イショウとよむのが慣習)して進み禄を受けて退出した。
節会がおこなわれないときは女王禄も中止した。
なお、江戸時代に征夷大将軍から大名、旗本に時服を賜うことがあったが、それは綿入の小袖をあたえた。