替地 (Kaechi)
替地(かえち)は各々の領土の交換である。
政治が絡む替地は、施行する幕府・領主にあっては、単なる事務処理に過ぎない。
しかし、その土地で生活をする領民にとっては、永年の慣行をも無視される重大事件であった。
愛媛の大洲領と松山領の替地
伊予松山藩主加藤嘉明転封の7年後、次の藩主蒲生忠知が参勤交代の途中、京都で急逝。
嗣子なく1634年(寛永11年)8月11日、松山城 (伊予国)地は江戸幕府の没収するところになった。
城在番は加藤泰興になり、城在番中に出羽ノ守は風早郡・桑村郡のうちの大洲市領は飛び地のため、伊予国松山領の一部と替地を申し出、1636年(寛永13年)8月に幕府が公許した。
松山市領地の伊予郡17村・浮穴郡20村が大洲藩の領地に替わったのである。
替地にあたり、幕府の上使松平勝隆・曽根源左衛門吉次から、領民等に対して「山川諸事先規の通り」と言う申し渡しがなされてはいた。
しかし、替地による余波は、領民に耐え難い諸問題を残した。
入会山紛争、砥部騒動をはじめ諸農民問題、海上漁業権に関する網代騒動などがあった。