本能寺の変 (Honnoji Incident)

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日 (旧暦)(1582年6月21日)、織田信長の重臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自殺させた事件。

光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、現在でも定説が確立されていない。
さらには、他の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている(各説については変の要因を参照)。

情勢

天正10年(1582年)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月に武田氏を滅ぼした。
関東地方の後北条氏、東北地方の伊達氏は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸地方の上杉氏、九州の島津氏となった。

織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失った。
また上杉氏は上杉謙信亡き後、養子縁組・上杉景勝の代であり、かつて関東・越後国から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は御館の乱で勢いを弱めていた。
四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた織田信孝が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢であった。
九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。

安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・豊臣秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数え年で49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。
その一方で、多くの兵力を派遣していたため信長周辺の軍勢は手薄であり、武田家滅亡後は天下統一目前という開放的な雰囲気で、畿内では信長、家康とも小勢で移動していた。
そこを信長の近畿管区軍というべき光秀軍が襲撃したのである。

経緯

光秀は、武田征伐から帰還したのち、長年武田氏と戦って労あった徳川家康の接待役を5月15日より務めた。
しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、秀吉援護の出陣を命ぜられた。
解任の理由は、15日に羽柴秀吉から応援の要請が届いたためである。
26日にはいまひとつの居城亀山城 (丹波国)に移り、出陣の準備を進めた。
愛宕神社 (京都市)に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。
この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、句の解釈は種々ある。

一方、信長は29日に秀吉の応援に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。
同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。
同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺 (京都市)に入った。
翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。

同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった(光秀は亀山城 (丹波国)には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城より3000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。
翌2日未明、桂川 (淀川水系)を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言して、襲撃を明らかにした。
江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。
なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある。
「敵は本能寺にあり」は江戸時代初期の『川角太閤記』が初出だが、『川角太閤記』には明智軍の参加者も協力したともいわれる。
またルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、当時、重職以外の足軽や統率の下級武士は京都本能寺にいる徳川家康を討つものと信じていた、とされている。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍(光秀はこの時、京都にも入っておらず、本能寺到着は9時。指揮した者が不明の謎の軍団とする説もある)は本能寺を完全に包囲した。

物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。
すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告された。
信長は「是非に及ばず」と言い、弓 (武器)を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。
しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、女衆に逃げるよう指示して、奥に篭り、信長の小姓・森成利に火を放たせ、自刃したと言われる(信長の家臣太田牛一の著作『信長公記』による、この女衆に取材したとある)。
信長の遺骸は発見されなかった。

信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。
この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。
しかし本能寺には堀と土居があり、この説は疑問である。

またこの縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、仏教への不信の信長が帰依していたとすることも含め信じがたい。
未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある。

一方、本能寺から200mの近辺に教会のあったルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が便所から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。
直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀術)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。
直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

明智謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとしたが、既に事態は決したから逃げるように側近に諭された。
しかし信忠は光秀軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに向かない妙覚寺を離れた。
実際は包囲は十分でなく、織田長益など逃げおおせており、歴史を変えるほどの判断の誤りであった。
そして京都の行政担当者である村井貞勝らと共に二条御所(二条新造御所)に移った。
信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒す猛将ぶりを見せ、少数で猛烈な抵抗を見せて三度も光秀軍を退却させた。
時間の経過とともに京都市内に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけ、反乱の去就が危うくなってきた。
光秀軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢でねらい打ち、側近を殆ど倒した。
こうして信忠は自刃し、二条御所は落城した。
(『信長公記』、『當代記』、)

妙覚寺には、信忠と共に、信長の弟・織田長益(のちの織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、落城前に逃げ出した(『三河物語』)。
そして安土城を経て岐阜県へと逃れ、無事であった。
信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 6月2日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。

また、信忠が二条御所で奮戦した際、ネグロイドの家臣ヤスケも戦ったという。
ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。
ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。
本能寺の変に触れるドラマの中では、ヤスケが信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。

ちなみに、2007年になり、本能寺跡の発掘調査が行われ、本能寺の変と同時期の大量の焼け瓦とともに、堀跡と護岸の石垣も見つかった。
本能寺が史料の通り、天正8年(1580年)年2月に、堀土居を造り厩新設し本堂などの改築で信長宿舎として改造されたことを裏付けている。
信長が本能寺の変に気付き、敵対勢力に対して本能寺で軍備を整えていたことを指摘している。

変の要因

一般的には、ドラマなどの影響で信長からの度重なるイジメが原因だとする理解が多いが、それらは根拠のないフィクションである。
また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(仏教弾圧など)への反動(反革命)との理解も多い。

光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。

怨恨説

一般に知られる怨恨説は以下の様なものである。

悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任されて面目を失った。
光秀は悔しがり食器を池に投げ入れた(『川角太閤記』)

まだ敵地の出雲国・伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた(『絵本太閤記』)
八上城戦で母を信長のために死なせてしまった(『総見記』、『絵本太閤記』)
武田家を滅ぼした先勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったのを信長が聞き咎め「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされて恨んだ(『祖父物語』)など

これらは、江戸時代以降に創作された講談話であり、明確な裏付けはない。

このうち「国替え説」は、唯一史料として変19日前の5月14日付けの丹波国人、土豪への軍役を課した織田信孝の軍令書が存在し、この人見家文書の花押の真偽を巡る学問的な論議となっている。
しかし梁田広正や滝川一益でも同様の敵地への領地替えが行われて旧領はしばらく安堵されていたので、これは新領獲得まで旧領安堵するという当時の作法ではという説がある。

またこれらとは別のもので、ルイス・フロイスの『日本史』に、変数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった、と記されている。

本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いている。
これによれば信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。
また変三ヶ月前の茶会で宝をおく床の間に信長の書を架けるなど心服している様子がある。
このため怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。
従来はドラマや旧領丹波など一部の地域では遺徳を偲んでいる事などの影響か誠実なイメージがある。
しかし、教養の高い文化人で線が細いといわれる光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな戦国武将としての姿が見える。

四国征伐回避説

信長の四国征伐を回避するため乱を起こしたとする説。

四国では、土佐国の長宗我部元親が明智家臣斎藤利三と姻戚関係を結び、光秀を通じた信長との友好関係の下で統一を進めていた。
一方、敗走した阿波国の三好康長は秀吉と結び(甥の豊臣秀次を康長の養子とした)、旧領の回復を目指した。
長宗我部氏による四国統一を良しとしない信長は、天正10年2月に元親へ土佐・阿波2郡のみの領有と上京を命じた。
これを、元親が拒否したため、織田信孝(信長の三男・四国征伐後に三好家の養子となり三好家を継ぐことが内定していた)を大将として四国征伐を行うことになった。

まず、康長が先鋒として四国に入り、6月2日には信孝、丹羽長秀らによる本軍が大坂より出陣する予定であった。

この説は、終戦直後から高柳光壽などが指摘し、少なくとも高柳やその支持派が長く唱えている説のようである。
桐野作人は、朝廷黒幕説への自己批判という意味からか「信長は、毛利水軍を牽制するために長宗我部氏が必要だったが、本願寺の退去と毛利水軍の衰微が長宗我部氏を必要としなくなっていった。その結果、長宗我部氏との親戚・婚姻関係樹立に尽力した光秀と利三の立場が危うくなった」という説を唱えた。
その観点から『真説 本能寺』を2001年に、『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』を2007年に上梓した。

黒幕説

信長を討つことについて、光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定し、その者の意向を背景にあることを指摘する説としては、以下のようなものがある。

足利義昭説

自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説。
三重大学の藤田達生教授が中心となって主張されている。

日ごとに権力を増す信長に脅威を抱いた朝廷は、信長の朝廷に対する忠誠心を計るため、天正10年(1582年)に「いか様の官にも任ぜられ」(どのような官位も望みのままに与える)と記された誠仁親王の親書(誠仁親王御消息)を送る。
しかし信長は、親書を届けた勅使に明確な返答をしないまま返してしまう。

天皇を軽んじた信長の態度に朝廷はうろたえるが、それ以上に信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めることを恐れた足利義昭は、かつての家臣・明智光秀に信長暗殺を持ちかける。
信長によって閑職へ追いやられた光秀はこの申し出を受け、信長の天皇謁見を妨害するため本能寺の変を計画したとされる。

藤田はこの説を裏付ける証拠として、本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝に協力を求めて送った使者が、「御当方(上杉のこと)無二御馳走(協力)申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに上杉より身分の高い人物への協力を促していることを示している。
加えて本能寺の変直後、光秀が紀州雑賀衆・土橋重治へ送った書状に「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と、光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉を使っていることを挙げ、光秀の背後に足利義昭が存在したと主張している。

信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭の繋がりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などが根拠となっている。
この説に対しては、義昭を庇護していた毛利氏が(定説によれば)本能寺の変を知らなかったことについて説明が付かないとの反駁がある。
仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずとの考えがこの反駁の根拠となる。

この反駁との関係では、毛利氏が本能寺の変を知っていたかどうかについて異説がある。
太閤記や佐久間軍記などでは、和議の時点ですでに毛利氏は本能寺の変の発生を知っていたとして描かれており、小早川隆景が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。
仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。
また、紀州の雑賀衆にすぎない土橋重治ですら、光秀に対して信長討伐の協力を申し出ていることから、毛利氏が本能寺の変を知っていたとしても不思議ではないとする考えもある。

朝廷説

朝廷黒幕説には、中心となる黒幕として、正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆を主体とみるかについて意見が分かれる。

「三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考えたことを根拠の一つとして挙げる。
光秀は、信長・信忠を討った後、朝廷に参内し、金品を下賜されている。
また、山崎の戦いの後、織田信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜したこと、吉田兼見が事情の聴取を受けていること、更に当時の一級史料である『兼見卿記』(兼見の日記)の原本内容が本能寺の変の前後1か月について欠けており、天正10年の項目は新たに書き直していた、という点も、朝廷黒幕説を支える根拠とされている。

「三職推任問題」は、本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上、信長が即答可能な問題ではないこと、京への立ち寄りの理由の1つは、それへの返答にあったと考えられることは、上記根拠への疑問を投げかける(信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある)。

さらに近衛前久は本能寺の変の当日または数日後に出家しており、これを細川幽斎の出家と同様、信長に殉じたと解釈するのが適切と見る見解や、後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などが反論として挙げられている。
信孝捜索も上記の信忠戦で屋根に光秀軍を上らせ殲滅させたことを咎めたのではないかという説がある。
また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなく仮説の域を出ない。
特に誠仁親王に関しては、変に際して二条御所で危うく巻き添えになりかけたことが、朝廷説への反論として言及されている。

さらに、天皇・朝廷が関わっているのなら、なぜ綸旨や太刀の下賜などで光秀を正当化しないのか。
この場合天皇側は事後に責任を問われない。
また光秀が朝廷天皇との関係を表明しないのか。
これでは光秀には組むメリットがないと最近多くの研究で言及されている。

2007年になって1992年に『兼見卿記』を基にした『信長謀殺の謎』を上梓している桐野作人が、インタビューの中で、ある研究者に『これは一種の陰謀史観だよ』と言われたことや、「そのころは古文書のくずし字がほとんど読めなかった」ことを告白し、自説を批判している。

朝廷の関与を否定する説も、否定しない説も、信長と正親町天皇の関係については、退位を要求したとする点に着目する説と、反対に、天皇自身の退位希望を信長が受け入れなかった点に着目する説とに分かれる。
前者が天正元年12月8日の『孝親日記』、後者が天正9年4月1日の『兼見卿記』の記述を挙げてることが多く、信長の皇室政策の時期的に相違する部分の一部を捉えて自説の論拠として挙げる傾向が見られる。

暦の問題について、天正11年の1月の京暦の中に雨水が含まれずに本来中気が入ってはならない閏1月にずれてしまうという太陽太陰暦の原則に反した錯誤が生じていた。
武家伝奏であった公家の勧修寺晴豊の「日々記」の天正十年夏記六月一日によると、信長はこれを死の前日まで公に指摘していた。
これも朝廷に対する己の優位を示すためのキャンペーンのひとつであったと捉えるか、信長式の尊王的態度の表れだと捉えるかでも、争いがある。

また、フロイス「日本史」における信長神格化の記述をもとに、信長神格化が朝廷と相容れなかったとする指摘もある(この点の最近の指摘者として井沢元彦)。
ただし、フロイスの記述の信憑性から、看過ないし黙殺する説が比較的多い。
(→動機と首謀者に関するその他の考察参照)

いずれの説によっても朝廷財政の最大の負担者となった信長が朝廷の意思決定に介入しうる立場にあり、両者に軋轢があったことを認めている点にほぼ争いはなく、信長の行為と介入のどの要素を選択してどう評価するかにより、説の展開が異なっている。

なお、勧修寺晴豊の「日々記」では、天正十年夏記において、 六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。と光秀と朝廷側の人間が「信長ヲ打ツ」謀議(談合)を持っていたことと伺わせる記述がある。

イエズス会説

立花京子が提唱した、イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。
ここでは「信長政権そのものが南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」、とされている。
更に大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとされ、イエズス会の最終目的は明の武力征服であり、結局の所、変は信長から秀吉に首をすげかえる為のものに過ぎなかった、としている。
この説に対する反論としては「信長はイエズス会から資金提供を受けていた」という点に関し、当事の会の定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上はインドに送金されており、そもそも会を維持運営するのにも事欠く有様であったことなどが挙げられている。
この他にも立花の史料の扱い方に関する問題が、江戸時代の信用に欠ける『明智軍記』などを検証無く多数引用する、など谷口克広の2007年の著作に提起されている。

羽柴秀吉説

信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への攻城戦包囲により殆ど戦力を失っていなかった事から事前に変を知っていたとする。
また秀吉にとって都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収め、また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。
物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い説。

豊臣秀吉本能寺の変の黒幕説参照。

徳川家康説

徳川家康説は、状況証拠が多いに留まるが、天海僧正(南光坊)=光秀説により、 興味ある内容となっている。
首謀というより、変に賛同、支援ないし、事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったというもの。
これも歴史小説ではよく触れられる。

フロイス「日本史」によれば、変の直前の天正10年5月15日 家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となった。
「これらの催しごと(家康の饗応)の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対を言われることに堪えられない性格であったので」光秀を折檻し饗応役を解いた。

ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、「太閤記」にあるような「魚が腐っていた」といった ような表の理由ではなく、実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説が多い。

裏づけとする史書の記述として、フロイスの「日本史」が続いて、光秀の京都への反転に際して 「兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝り始め おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を 殺すつもりであろうと考えた。」という部分がある。
また、江村宗具の「老人雑話」の、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺におわしました。信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂堺を見せよとつかわされたのだが、 実のところは隙をみて家康を害する謀であった」とある部分が著名である。

またあわせて主張される点として以下のようなものがある。

正妻の築山殿、嫡男の松平信康の誅殺命令にあるように、織田と徳川は後世に美化されたような「同盟」という 対等の関係でなく、徳川は織田にとって、使い捨ての駒に過ぎず、 東方平定のためには、早々に完全に弱体化させるか滅ぼされるべき存在に過ぎなかった。

信長の敵対者である伊賀忍者に守られた逃避行は、後世、光秀方に誅されることを恐れたものとされるが、 本来は信長方に誅されることを恐れて事前に準備されたものだった、ないし、 自己の関与を否定するための演出であった。

天海僧正(南光坊)=光秀生存説については次のような事例をあげるとともに、家康の光秀に対する称揚と受け取られる行為に注目する説も多い。

光秀の首とされたものはすでにかなりの腐敗の進んだ状態で実検された。

天海僧正の前半生は謎。
しかし軍議に参加し家康が信任するほどの手腕。
あきらかに通常の僧侶でない。

比叡山に、慶長20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれた石灯籠が存在する。

光秀の位牌を祀る大阪の本徳寺に残存する光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」という裏書があり、そのまま読めば光秀は仏門で余生を送ったという意味である。

斎藤利三の娘である春日局は、初対面であるはずの天海に対して最上礼である「平伏」をした上で「お久しゅうございます」と述べた。

東照宮陽明門の武士木像、鐘楼の紋は明智の家紋である「桔梗」である。

家康は、光秀が所有していた熊毛の鑓(やり)を何故か所有しており「これは名将 日向守殿の鑓である、日向守の武功に肖れ。」と付言して従兄弟 水野勝成に与えた。

家光の「光」と、秀忠の「秀」で、合わせると「光秀」。
(ただし、秀忠の秀の字は松平秀康と同じく秀吉からの偏諱である。)

その他の黒幕説

堺の豪商(または千利休)説

毛利輝元(あるいは小早川隆景)説

朝廷と羽柴秀吉の共謀説

島津氏関与説 - 信長が毛利氏を滅ぼした後、九州征伐を開始するのは時間の問題である。
さらに信長と通じる大友氏や龍造寺氏らの反攻を受けて苦境に立たされていた島津氏が、朝廷の公家らと共謀していたという説。
根拠は乏しいのだが、島津義久の側近である上井覚兼の日記として有名な「上井覚兼日記」の記述で、本能寺の変が起こった天正10年6月2日から11月3日までの項が白紙にされているのである。
なぜ、この項だけ触れられていないのか疑問が残る。

動機と首謀者に関するその他の考察

光秀がいつ頃から謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、「時は今 天が下知る 五月哉」は、「時(とき)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天(あめ)が下(した)治る(しる)」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もある。
※「時は今 雨が下なる 五月哉」と詠んだいう説もある。

フロイス「日本史」によると、信長は天正7年5月11日に安土城で自らを神とする儀式を行い、総見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとしたという。
ただし、フロイスがこの「儀式」について初めて記したのは信長の死後であり、フロイス自身が「儀式」が行われたとされる当時に安土周辺にはいなかったこと、日本国内の一級史料ではこの「儀式」についてまったく言及されていないことなどから、谷口克広はフロイスの記述に信憑性はなく、信長が滅んだことを正当化するために記したものであるとの見解を示している。

明智光秀

光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日(4日説がある)安土城に入った。
9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。
13日の山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。
安土と京都で政務を執ったのが4、5日から12日であったため、三日天下と呼ばれた。

期待していた親類の細川幽斎、与力の筒井順慶ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。

羽柴秀吉

秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。

早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。
6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津国まで進んだ。
ここで摂津の武将中川清秀・高山右近・池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のため堺市にいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。
これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。
この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。

織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに清洲会議にて信忠の子・三法師(織田秀信)の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。

柴田勝家

勝家は佐々成政・前田利家とともに、6月3日上杉氏の越中国魚津城を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。
しかしその頃信長は既に亡かった。
変報が届くと、上杉景勝の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。
ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。
その後清洲会議で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗北、自害した。

徳川家康

家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。
6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。
家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。
山城国綴喜・近江国・加太峠・伊賀国の山中を通って伊勢国へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河国に戻った。

これは後に「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。
実際、『三河物語』によると、同行しながらかなりの金品を持っていて家康従者に強奪されるのではと恐れて距離を置いていた穴山信君一行は、山城国綴喜郡の現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)の渡しで、落ち武者狩りの土民に追いつかれ襲撃されて死んでいる。
まさに紙一重の差で家康は逃れた。
この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀流であり、その際の伊賀の棟梁、服部半蔵の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。
なお、堺で討たれたと言う伝説も存在し、堺市内の南宗寺には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の大坂の役の際に生まれた伝説である。

三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。
一説によると酒井忠次は北伊勢まで進軍していたと言う。
もし、これが事実なら家康は美濃~京へ進軍する方と、伊勢~京に進軍する二手に分かれることになる。

その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃国・甲斐国を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。

織田信雄

信長の次男・織田信雄は、本能寺の変の後光秀を討とうと近江の土山へ進軍するが、山崎の戦いで光秀が秀吉に大敗したことにより撤退。
信雄は清洲会議にて織田家の跡継ぎに推されなかった(他家に養子に出ていたこともあるが、度々失態を犯すなど暗愚であったことも大きいと思われる)。
これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った(小牧・長久手の戦い)。

滝川一益

一益は関東の上野国厩橋城にいた。
本能寺の変の報を聞くとすぐさま撤退するが、小田原市の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、敵中突破を試みた一益は大敗して領国の伊勢長島城へ帰還した(神流川の戦い)。
一益の敗戦により上野、信濃の織田勢力は一掃される結果となり、一益は織田家重臣の列から外され、清洲会議にも出席できなかったという。

織田信孝・丹羽長秀

信孝は長秀、信長の甥・津田信澄(父は織田信行)らとともに大坂にて四国の長宗我部元親討伐の準備を進めていた。
本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。
その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。

信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。
しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。

長宗我部元親

長宗我部元親は信長の四国征伐の影響もあり、兵を白地城に休ませていた。
だが、信長横死を知るや出兵し、中富川の戦いに勝利し、阿波国・讃岐国を完全に勢力下に入れた。

[English Translation]