梶原景時の変 (Kagetoki KAJIWARA incident)

梶原景時の変(かじわらかげときのへん)は鎌倉時代初期、正治元年10月25日 (旧暦)から翌正治2年1月20日 (旧暦)(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。
初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件である。
頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件であった。

経緯

文武に優れた梶原景時は鎌倉幕府侍所別当として御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役であった。
鎌倉殿専制政治をとる頼朝にとっては重要な役割を担った忠臣である一方、御家人たちからは恨みを買いやすい立場の人物であった。

正治元年(1199年)正月、頼朝が急逝し、嫡子源頼家が家督を継いた。
しかし将軍独裁体制に対する御家人たちの鬱積した不満により、頼家はわずか3ヶ月で訴訟の採決権を奪われ、代わって幕府宿老による十三人の合議制がしかれ、将軍独裁は押さえられた。
頼朝時代に続き頼家が「一の郎党」として頼みとしていた景時もこれに加わった。

連判状

合議制成立の半年後の秋、『吾妻鏡』10月25日条によると、将軍御所の詰め所で結城朝光がありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた。
翌々日、御所に勤める女官である阿波局 (北条時政の娘)が朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言し、あなたは殺される事になっている」と告げた。
驚いた朝光は三浦義村に相談し、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業に糾弾状の作成を依頼した。

10月28日、千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・所左衛門尉朝光・民部丞行光・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・山内首藤経俊・宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長・佐々木盛綱・稲毛重成・安達景盛・岡崎義実・土屋義清・東重胤・土肥惟光・河野通信・曽我祐綱・二宮四郎・長江明義・諸の次郎季綱・天野遠景・工藤行光・中原仲業以下御家人66名による景時糾弾の連判状を一夜のうちに作成し、将軍側近官僚大江広元に提出した。
広元は躊躇して連判状をしばらく留めていたが、和田義盛に強く迫られて将軍頼家に奏上した。

11月12日、将軍頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向した。
謹慎によって御家人たちの支持を得たので景時は12月9日に一端鎌倉へ戻ったが、頼家は景時を庇うことが出来ず、18日、景時は鎌倉追放を申し渡され、和田義盛、三浦義村が景時追放の奉行となって鎌倉の邸は取り壊された。
29日、結城朝光の兄小山朝政が景時に代わって播磨国守護となり、同じく景時の所有であった美作国の守護は和田義盛に与えられた。

上洛と滅亡

翌正治2年(1200年)正月20日、景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士たちに発見されて襲撃を受け、狐崎において合戦となる。
子の三郎景茂(年34)・六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれ、景時と嫡子景季(年39)、次男景高(年36)は山へ引いて戦ったのち、自害した。
翌日景時と子息2人の首が探し出され、一族33名の首が路上に懸けられた。
『吾妻鏡』正月28日条の武田信光からの報告によると、景時は朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称して上洛し、武田有義を将軍に奉じて反乱を目論んだという。

京都では忠臣であった景時を死なせたことは、頼家の大失策であると評された。

景時滅亡後の正治3年(1201年)正月23日、景時が庇護して御家人となっていた城長茂が上洛し、大番役で在京していた小山朝政の宿所を襲撃する。
長茂は後鳥羽天皇に頼家追討の宣旨を得ようとしたが叶わず、吉野で幕府軍に討たれている。
一方越後国では長茂の甥城資盛が蜂起して幕府軍と戦った。
また長茂与党として藤原秀衡の子藤原高衡が討たれている。

景時追放の3年後、頼家は北条氏によって将軍職を追放されたのち、暗殺された。
代わって実朝が将軍に立てられ、北条氏が幕府の実権を握る事になる。

背景

京都側の記録である『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟源実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。
『愚管抄』では頼家殺害と景時滅亡の因果関係を強く指摘している。

鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、景時弾劾状に北条時政・北条義時の名は見られないが、景時の一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局 (北条時政の娘)は時政の娘で、実朝の乳母であった。
この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除の嚆矢とされる。

[English Translation]