横山党 (Yokoyama Party)

横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山庄を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。
武蔵七党の一つ。
有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)が居る。
和田合戦で滅亡した。
なお猪俣党も一族である。

出自

小野篁の後裔といわれているが、安田元久は諸系図の精査や世代間の年数の計算、当時の国司の任命状況から見て後世の作為で、実際は在地の開発領主の末裔であろうと推測し、太田亮の『姓氏家系辞典』での所見である武蔵国造の末裔ではないかという見解を消極的に支持している。

武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)を本拠として横山姓を称したとされる。
当時「横山」とは多摩丘陵を指し、『万葉集』に「多摩の横山」と詠われている。

平安時代

924年(延長 (日本)2年)、小野氏が武蔵守として着任した際、石清水八幡宮を勧請して、八幡八雲神社を建立した。

1113年(天永4年)、愛甲内記太郎の殺害事件により追討を受ける。
源為義に服属する。

1156年(保元元)の保元の乱および1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝麾下(畠山氏に従属との説もあり)に従軍し活躍した。

鎌倉時代

『平家物語』によると、治承・寿永の内乱でも活躍した。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山庄の所領を安堵された。

1213年(建暦 3)、和田合戦で和田義盛に加勢した横山時兼とその一党は鎌倉で全滅した。

横山党本拠地であった横山庄は大江広元に与えられた。
1214年(建保 2)、大江広元は横山党の始祖横山義孝を祀った横山神社を八幡八雲神社の境内に創建した。

安田元久は横山党の分家の多さから横山党が強勢を誇っていたのだろうと推測している。

[English Translation]