正中の変 (Shochu Incident)
正中の変(しょうちゅうのへん)とは、鎌倉時代後期の1324年(正中 (元号)元年)に起きた、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が事前に発覚して首謀者が処分された事件である。
概要
後醍醐天皇は父である後宇多天皇に代り1324年から親政を開始し、記録荘園券契所の再興などの政治を始める。
後宇多法皇は死の間際まで皇太子の邦良親王を大覚寺統の嫡流として、後醍醐天皇は一刻も早く譲位を行うように命じていた。
法皇の死後、邦良親王は後醍醐天皇に譲位を行わせるべく鎌倉へ伺いを立てていた。
また、持明院統もまた、邦良親王の即位後に光厳天皇を皇太子にする事を条件にこの動きを支持した。
当然、後醍醐天皇は邦良親王や持明院統、そしてこのような皇位継承を決めた鎌倉幕府に対して激しく反発した。
後醍醐天皇は六波羅探題南方の北条維貞(北条得宗一族)が鎌倉へ赴いている最中に鎌倉幕府討幕を企て、側近の日野資朝、日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼びかけていた。
13世紀中ごろから畿内などでの活動が活発であった悪党や、奥州での安東氏と蝦夷の対立など、政情不安に乗じてのものだとも考えられている。
9月19日には、六波羅探題が察知して計画は事前に発覚し、土岐頼兼、多治見国長、足助重範など密議に参加した武将は討伐される。
俊基らは赦免されたが資朝は鎌倉へ連行され佐渡島へ流刑となり、側近の万里小路宣房らが鎌倉へ赴いて釈明を行い、後醍醐天皇は幕府に釈明して赦されるが、7年後の1331年(元弘元年)に2度目の討幕計画である元弘の乱を起こす。
古典『太平記』で巻一に正中の変の顛末が記されており、無礼講と称して討幕計画や、計画に参加していた土岐頼員が妻に謀反の計画を漏らし、六波羅探題に事情を密告する話などが記されている。
西大寺 (奈良市)系の律僧も参加していたと記されている。
後に建武の新政において役職を務める伊賀兼光や律僧の文観の関与も指摘されている。