比企能員の変 (HIKI Conspiracy of Yoshikazu)

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日 (旧暦)、鎌倉幕府内部で起こったクーデターである。
北条氏によって、2代征夷大将軍源頼家の外戚として権勢をふるった比企能員とその一族が滅ぼされた事件。

経緯

鎌倉幕府後期に得宗専制の立場から編纂されたと見られる後代史書吾妻鏡によれば事件の経過は以下の如くである:

源頼朝の乳母の比企尼の養子であり、妻が頼朝の嫡男万寿(後の源頼家)の乳母ともなった比企能員は、頼朝に信頼され有力御家人となった。

頼朝没後、頼家が二代征夷大将軍となると能員は十三人の合議制の1人に加えられた。
さらに、能員の娘の若狭局が頼家の妾となり長子一幡を産み、将軍の外戚ともなった。
能員は頼家に信任され、権勢を振るうようになる。

この比企氏の台頭に危機感を持ったのが、頼家の母北条政子(尼御台)とその父北条時政である。
政子と時政は、比企氏が北条氏に取って代わり政権を掌握することを恐れ、比企氏の排除を謀る。

建仁3年(1203年)8月、頼家が重病に陥った。
政子と時政は能員に諮ることなく、五畿内・東海・東山の28カ国地頭職と総守護職を頼家の長子一幡に、北陸・山陽・山陰・南海・四海の38カ国地頭職を頼家の弟千幡(後の源実朝)に分割させることを決めた。
能員はこの決定を知って大いに怒った。

能員暗殺と比企氏の滅亡

9月2日、能員は北条氏へ巻き返しを図るべく、若狭局を通じて病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。
かねてから北条氏によって将軍の権力を押さえつけられていたことに不満を持っていた頼家は能員の訴えに応じて、北条氏討伐を命じた。
だが、この密謀を隣室に居た政子が障子越しに聞きつけた。
政子はすぐさま、名越の北条邸に帰宅途中の時政に使いの女房を送り、頼家と能員の密謀を知らせる。
時政は先手を打って比企一族を滅ぼすことを決意する。
時政は天野遠景と仁田忠常と謀り、能員を謀殺することにした。

政子が薬師如来供養を口実に能員を名越の北条邸に招いた。
能員は密謀が北条氏に知られているとは全く気づかず、平服で僅かな供とともに北条邸に入った。
そこを天野遠景と仁田忠常が躍りかかり、たちまち能員を討ち取ってしまった。

能員の謀殺を知った比企一族は驚愕。
比企一族は一幡の小御所に入った。
尼御台政子が病床の将軍代行となり、比企氏討伐令が鎌倉の御家人に発せられる。
時政の嫡子北条義時を大将とする軍勢が小御所を取り囲み、攻め寄せた。
比企一族は一幡と若狭局を守って戦うが、多勢に無勢で勝ち目はなかった。
小御所に火がかけられ、比企一族は一幡を囲んで尽く自刃した。
頼家の外戚として権勢を誇った比企一族は、たった一日で滅亡してしまった。

頼家幽閉と実朝の将軍就任

数日後、皮肉にも頼家が病から回復、舅の比企一族の滅亡と一幡、若狭局の死を知り激怒した。
頼家は和田義盛と仁田忠常に御教書を送って北条討伐を命じた。
しかし和田義盛はこの御教書を北条方へ送って頼家を裏切り、仁田忠常は滅ぼされた。
その日(9月7日)のうちに尼御台政子の命で頼家は将軍職を剥奪された上伊豆国修善寺へ幽閉され、実朝が将軍職を継いだ。

元久元年(1204年)7月18日、頼家は修善寺で没した。

事件の背景

以上は主に鎌倉幕府後期に得宗専制の立場から編纂されたと考えられる後代史書『吾妻鏡』の記述によった事件の経過だが、事件の背景としてはさらに次のようなことが考えられる。

不可解な事実

『吾妻鏡』以外の文献を調べるとやや異なった事実が伝えられている。

藤原定家の『明月記』によると9月7日に鎌倉からの使者が到着して、頼家が1日に死去したと報じ、朝廷に実朝の将軍就任要請をしたと伝えている。
この記録を信じるならば、この時点で頼家は存命していたわけであるし、幕府の使者があらかじめ用意された偽りの報告をした可能性が高い。
使者が京都に到着したという9月7日は、まさに頼家が出家した日でもある。

慈円の『愚管抄』は明らかに頼家を謀殺されたものとして記述している。
『吾妻鏡』は頼家の死因についてとくに記していないが、おそらく暗殺されたと見てよかろう。

以上のことが事実であるとすれば、事件そのものが用意周到な謀略であったと見ることもできよう。

事件は北条氏による謀略か?

このことから、事件の発端となった能員と頼家の密謀そのものが事件後に北条氏によってでっちあげられた捏造であったとする見方も成り立つ。
この事件以後おもに北条氏と有力御家人との間の政争が続くため、この事件をその発端と考える見方である。
ただ同時に見逃せないのは、この事件の背景に専制を強める将軍およびその近臣勢力と東国有力御家人との対立が考えられることである。
後世鎌倉幕府の執権職を世襲する北条氏であるが、この事件当時それほど大きな力を持っていたわけではない。
この事件が謀略であったとして、幕府内の有力な東国御家人の支持なくしては実行不可能であったはずである。

とすれば、表面的に北条氏の活躍が目立つものの、実際は東国有力御家人の諒解のもとにこの事件は進行したと考えられる。

北条政子の役割
また頼朝の後家としての北条政子の影響力も無視できない点である。

『吾妻鏡』の記述によれば、比企氏討伐も頼家の幽閉も政子の「仰」であったとされるし、事件の発端となった頼家死後の一幡と千幡の諸国守護の分掌も政子の積極的な関与が見て取れる。
実朝の代になっても様々な場面で政子が決定的な役割を担っていることも多く、もしこれをそのまま事実であったとするならば、北条氏を含めた東国御家人勢力とは別個に調停者としての政子の個性も認めねばなるまい。

また、この時期の政子の地位について注目すべきものとして以下の二つがあげられる。
すなわち、頼朝の後家として、頼朝の法事を含め幕府の宗教体制の中心的存在であったこと。
また幕府の実務官僚であった大江広元ら京下りの吏僚たちを掌握していたことである。
彼らは幕府内にあって将軍権力と有力御家人の間の中間勢力をなしていたと考えられる。
彼らを掌握していたからこそ政子は調停者として振る舞うことが出来たともいえよう。

以上をふまえれば、頼朝死後の鎌倉幕府将軍の権力は、将軍職は頼家が継いだものの、生前の頼朝がもっていた地位と権力は実際は政子と頼家により分掌されていたと見ることも出来よう。
つまり政子の関与により頼家から実朝への将軍職委譲がなされたという事件の側面をみることができるとともに、鎌倉幕府の権力構造を考える上で、のちの執権職につながる役割を考察する材料となることは確かである。

[English Translation]