民撰議院設立建白書 (Minsen Giin Setsuritsu Kenpaku Sho (The Petition to Establish an Elected Assembly))
民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)は、1874年(明治7年)1月17日、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。
自由民権運動の端緒となった文書である。
建白書の提出まで
1873年(明治6年)末、いわゆる明治六年の政変で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した古沢滋(迂郎)、小室信夫らの意見を聞き、政党の結成を思い立った。
1874年1月12日、板垣らは愛国公党を結成し、反政府運動を始めた。
愛国公党は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張した。
そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとも主張した。
建白書の内容
愛国公党を結成して5日後の1874年1月17日、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参議)、副島種臣(前参議)、由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵省大丞)、および起草者の古沢滋、小室信夫の8名は、連名で民撰議院設立建白書を左院に提出した。
左院とは、当時の立法議政機関である。
民撰議院設立建白書は、まず、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ有司専制(ゆうしせんせい。有司=官僚)にあることを批判する。
そして、この窮地を救う道はただ「天下ノ公議」を張ることにあり、「天下ノ公議」を張るとは「民撰議院」を設立することであるとする。
「民撰議院」によって有司の専権を抑え、以て国民は幸福を享受することになると主張する。
原文(抜粋)
某等別紙奉建言候次第、平生ノ持論ニシテ、某等在官中屡及建言候者モ有之候処、欧米同盟各国へ大使御派出ノ上、実地ノ景況ヲモ御目撃ニ相成、其上事宜斟酌施設可相成トノ御評議モ有之。
然ルニ最早大使御帰朝以来既ニ数月ヲ閲シ候得共、何等ノ御施設モ拝承不仕、昨今民心洶々上下相疑、動スレバ土崩瓦解ノ兆無之トモ難申勢ニ立至候義、畢竟天下輿論公議ノ壅塞スル故卜実以残念ノ至ニ奉存候。
此段宜敷御評議ヲ可被遂候也。
明治七年第一月十七日
高智県貫属士族 古沢迂郎
高智県貫属士族 岡本健三郎
名東県貫属士族 小室信夫
敦賀県貫属士族 由利公正
佐賀県貫属士族 江藤新平
高智県貫属士族 板垣退助
東京府貫属士族 後藤象次郎
佐賀県貫属士族 副島種臣
左院 御中
臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス。
夫有司、上帝室ヲ尊ブト曰ザルニハ非ズ、而帝室漸ク其尊栄ヲ失フ、下人民ヲ保ツト曰ザルニハ非ラズ、而政令百端、朝出暮改、政情実ニ成リ、賞罰愛憎ニ出ヅ、言路壅蔽、困苦告ルナシ。
夫如是ニシテ天下ノ治安ナラン事ヲ欲ス、三尺ノ童子モ猶其不可ナルヲ知ル。
因仍改メズ、恐クハ国家土崩ノ勢ヲ致サン。
臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。
天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。
則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン。
請、遂ニ之ヲ陳ゼン。
夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。
是天下ノ通論ニシテ、復喋々臣等ノ之ヲ贅言スルヲ待ザル者ナリ。
(中略)
臣等既ニ已ニ今日我国民撰議院ヲ立テズンバアル可カラザルノ所以、及今日我国人民進歩ノ度能ク斯議院ヲ立ルニ堪ルコトヲ弁論スル者ハ、則有司ノ之ヲ拒ム者ヲシテ口ニ藉スル所ナカラシメントスルニハ非ラズ。
斯議院ヲ立、天下ノ公論ヲ伸張シ、人民ノ通義権理ヲ立テ、天下ノ元気ヲ鼓舞シ、以テ上下親近シ、君臣相愛シ、我帝国ヲ維持振起シ、幸福安全ヲ保護センコトヲ欲シテ也。
請、幸ニ之ヲ択ビ玉ンコトヲ。
建白書の影響
民撰議院設立建白書の内容は、イギリス人ジョン・レディー・ブラックによる新聞『日新真事誌』に掲載されて広く国民に知られた。
政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。
民撰議院設立建白書は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。
しかし、国民各層にはその考え方が次第に浸透して行き、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。