民部省 (Minbu-sho)
民部省(みんぶしょう)は、律令制下の日本の官制の一つ。
明治時代の省庁の一つ
民部省(律令制)
律令制下の八省の一つ。
財政・租税一般を管轄し諸国の戸口、田畑、山川、道路、租税のことを司る。
財政官庁として他に大蔵省律令制における大蔵省があったが租税や租税関係の戸籍はこちらが取り扱ったため大蔵省よりも重視された。
ちなみに戸籍のうち姓氏などは治部省の管轄である。
ただし、貞観 (日本)4年7月27日付宣旨(『類聚符宣抄』巻六)によって、官物免除を除く諸国から中央への申請は全て太政官で決定した。
そしてそのまま太政官符にて諸国に直接通達する(官物免除は従来通り、民部省符を合わせて発給する)とされた。
その規定が『貞観式』以後にも継承されたため、以後民部省が関わる職務に関する決定の多くは太政官が扱うこととなった。
その結果、民部省は地方に関する事務処理のみを扱うこととなった。
特に田畑関係に関しては、平安時代中期以降の荘園の発展とともに、それから必然的に生ずる地券関係の諸問題を扱う重要な役割を担った。
太政官が発給する太政官符及び民部省が発給する省符による許可を得た荘園を荘園免田寄人型荘園と称される事となる。
職員
長官である民部卿は正四位相当であった。
以上のように地券関係や租税関係を扱う重職であることから中納言以上の公卿が兼帯することが多かった。
更に民部省の実務に当たっていた判官にあたる大丞・少丞の中から年労により従五位に叙爵されることが多く、それらの者は民部大夫と称された。
大輔以下の定員は以下のとおり(四等官日本の四等官制参照)。
大輔(正五位下相当)一人
少輔(従五位下相当)一人
大丞(正六位下相当)二人
小丞(従六位上相当)二人
大録(正七位上相当)二人
少録(正八位上相当)二人
註:大輔・少輔には後に権官も設置された。
史生
書生
省掌
使部
直丁
民部省被官の官司
主計寮(かずえりょう)
主税寮(ちからりょう)
※廩院(りんいん)-民部省に付属する施設。
租庸調庸の一部と年料舂米を収蔵して諸行事などで分配した。
太政官左大史が別当を、中務省監物と主計寮が勾当を努めてこれを管理した。
民部省(明治時代)
明治2年7月8日 (旧暦)(1869年8月15日)、太政官に設置された省庁の一つで、国内行政を管轄していた。
ところが、その1ヶ月後の8月11日 (旧暦)に大蔵省と合併されてしまった。
徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する大隈重信(民部大輔)、伊藤博文(大蔵少輔)が強く推進した結果であった。
三条実美・木戸孝允がその背後にいた。
ただし、形式上は両省とも存続された。
卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねる(例えば、大隈は大蔵兼民部大輔、伊藤は大蔵兼民部少輔に就任する)ことで統一されたため、「大蔵民部省」とも称された。
一方、大久保利通・広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議が地方官の支持を受けて再分離を求めた。
その結果、明治3年7月10日 (旧暦)(1870年8月6日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。
だが、大久保の主張した旧幕臣官吏の追放が認められなかった。
租税については一括して大蔵省が担当することになった。
このために両者の対立が続いた。
その後、大久保と大隈・伊藤らの間で妥協が成立した。
明治3年10月20日 (旧暦)(1870年12月12日)に殖産興業を推進する工部省が民部省から分離された。
明治4年7月27日 (旧暦)(1871年9月11日)に改めて、民部省は大蔵省に合併されて廃止された。
だが、「巨大官庁・大蔵省」誕生に対する政府内の反発は収まらなかった。
明治6年(1873年)11月29日に徴税以外の国内行政部門は再度分離されて、新しく内務省 (日本)が創設されることとなった。