水替人足 (Mizukae nisoku)

水替人足(みずかえにんそく)は、鉱山に溜まった排水を外部に排出する仕事(水替)に従事した人足(労働者)のことである。

ここでは主に江戸幕府が管理した佐渡金山にて、坑道の排水を排出する仕事に従事した人足について述べる。

概要

佐渡金山へ水替人足が送られるようになったのは安永6年(1777年)のことである。

天明の大飢饉など、折からの政情不安により発生した無宿が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪犯罪を犯すようになった。
その予防対策として、懲罰としての意味合いや将軍のお膝元である江戸浄化のため、犯罪者の予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡島の佐渡金山に送り、彼らを人足として使役しようとするものである。

発案者は勘定奉行の石谷清昌(元佐渡奉行)。
佐渡奉行は治安が悪化するといって反対したが、半ば強引に押し切る形で無宿者が佐渡島に送られることになり、毎年数十人が送られた。

当地の佐渡では遠島の刑を受けた流人(「島流し」)と区別するため(佐渡への遠島は元禄13年(1700年)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた。

当初は無宿である者のみを送ったが、天明8年(1788年)には敲や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、文化(元号)2年(1805年)には人足寄場での行いが悪い者、追放刑を受けても改悛する姿勢が見えない者まで送られるようになった。

犯罪者の更生という目的もあった(作業に応じて小遣銭が支給され、改悛した者は釈放された。
佃島の人足寄場とおなじく、囚徒に一種の職をあたえたから、改悟すれば些少の貯蓄を得て年を経て郷里にかえることをゆるされた)が、水替は過酷な重労働であり、3年以上は生存できないといわれるほど酷使された。
そのため逃亡する者が後を絶たず、犯罪者の隔離施設としても、矯正施設としても十分な役割を果たすことが出来なかった。

島においてさらに犯罪のあったときは鉱穴に禁錮されたが、これは敷内追込といい、また島から逃亡した者は死罪であった。

[English Translation]