氷上川継の乱 (HIKAMI no Kawatsugu's War (a political event in Nara period))
氷上川継の乱(ひかみのかわつぐのらん)は奈良時代の政治事件。
天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を企てるが露見して失敗した。
宝亀元年(770年)称徳天皇が崩御して、天智天皇の孫の白壁王が即位した(光仁天皇)。
壬申の乱以来、天武天皇の子孫が皇位を世襲してきたが、奈良期に打ち続いた政変で天武系の皇族の多くが殺されるか刑を受けていた。
そのため称徳天皇の死によって天武系の主流が断絶して、天智系の天皇が復活することとなった。
氷上川継は塩焼王(氷上塩焼)と不破内親王(聖武天皇の皇女)の子で天武天皇の曾孫になるが、塩焼王が藤原仲麻呂の乱に与して処刑されたこともあり、皇嗣からは外されていた。
両親とも天武天皇の系統の川継こそが正統の皇位継承者であると考える者も少なくなかったと思われる。
天応 (日本)元年(781年)光仁天皇は皇太子の山部親王へ譲位した。
桓武天皇である。
即位の翌年の延暦元年(782年)閏正月、川継の資人の大和乙人が武器を帯びて宮中に闖入して捕らえられた。
訊問を受けた乙人は主人の川継の謀反を白状する。
その証言は同月10日夜に川継が一味を集めて北門から宮中に押し入り、朝廷を倒そうと云うものであった。
直ちに川継を捕らえるため勅使が派遣されるが、川継はいち早く逃亡してしまう。
間もなく、同月14日に川継は大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。
川継の罪は極刑に値するところ、死一等を減じられて伊豆国へ流罪となった。
母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。
この事件に連座して川継の舅である参議・藤原浜成(藤原京家)は大宰員外帥に左遷され、京家は二代目にして早くも没落した。
また山上船主、三方王、参議・大伴家持、右衛士督・坂上苅田麻呂らも処罰を受けた。
(家持、苅田麻呂は嫌疑がはれてもとの地位に復している)
同年5月、右大臣藤原魚名が罷免されている。
『続日本紀』には罪状についての記録はないが、川継の事件に連座したものと考えられる。
この事件によって天武系の皇族は完全に皇位継承から排除された。
桓武天皇の崩御後の大同 (日本)元年(806年)川継は罪を許されて従五位下に復している。