永正の錯乱 (Eisho Disturbance)
永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、戦国時代 (日本)の初期にあたる永正4年(1507年)、室町幕府管領・細川政元が殺害された事件を指し示す。
いわゆる細川氏(京兆家)の内訌である。
細川政元の3人の養子
明応2年(1493年)、管領・細川政元は、10代征夷大将軍・足利義稙を廃立し専制権力を樹立した(明応の政変)。
さて政元には実子は無く、関白・九条政基の末子である細川澄之、細川氏阿波細川氏からの細川澄元、さらに細川氏野州家からは細川高国の3人を迎え養子にしていた。
永正3年(1506年)、摂津国守護となった澄元が阿波国勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになる。
すると、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まった。
政元殺害
永正4年(1507年)6月23日、修験道にとりつかれ、度々奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところ、澄之を擁する内衆の薬師寺長忠・香西元長らに殺害された。
さらに翌日、長忠らは澄元・三好之長の屋敷に攻め寄せると、澄元らを近江国に敗走させ、澄之を迎えて家督を継がせた。
しかしもう一人の養子・高国は、一族の摂津国分郡守護細川政賢や淡路国守護細川尚春、河内国守護畠山義堯と語らい、細川氏(京兆家)の後継者を澄元とすることで合意をみた。
まず7月28日、薬師寺元一(弟・薬師寺長忠に滅ぼされている)の子・薬師寺万徳丸は、長忠の居城茨木城を攻め落した。
そして翌29日、細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とした。
8月1日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を高国勢とともに一気に攻め落したため澄之は自害した。
翌2日、澄元は将軍に拝謁し、京兆家の家督と管領職を継いだ。
澄元と高国
ところで明応の政変で追われた前将軍足利義稙(義材、のち義稙)は、明応8年(1499年)以来周防国の大内義興を頼っていた。
だが、幕府はその動向を恐れて6月 (旧暦)、義興追討の綸旨を得て安芸国・石見国の国人らに義興追討を命じた。
しかし永正4年(1507年)末、大内義興は義尹を擁し、軍勢を率いて山口市を発すると、備後国鞆の浦で年を越しつつ入京の時期をうかがった。
この頃、三好之長の専横に反発する畿内の勢力は細川高国の元に結集していた。
澄元は義興と和議を結ぶために高国を差し向けようとした。だが、逆に高国は伊賀国に出奔した。
義尹・義興と結び、摂津の伊丹元扶や丹波国の内藤貞正らの畿内国人を味方につけた。
永正5年(1508年)4月、澄元や11代将軍足利義澄は相次いで近江に逃れ、高国が入京した。
4月末、義尹・義興は和泉国堺に到着、出迎えた高国が京兆家の家督を継いだ。
6月、前将軍義尹は堺から京に入り、再び将軍となった。
高国は右京大夫・管領となり、大内義興は左京大夫・山城国守護となった。
この1年の間に、細川氏(京兆家)の家督は政元から澄之、澄元、高国とめまぐるしく入れ替わった。
両細川の乱
この擾乱を契機として、京を押さえた細川高国らと、細川澄元・細川晴元・三好氏ら阿波勢との攻防が長期にわたって繰り返された。
永正6年(1509年)、細川澄元・三好之長が京侵攻を企てるが、細川高国・大内義興は協同して撃退(如意ケ嶽の戦い)している。
同年10月、高国らが近江に侵攻し、澄元・之長は阿波に逃亡した。
之長の子・三好長秀は伊勢に敗走したが、北畠材親に攻められ自害する。
永正7年(1510年)、高国らが近江に侵攻したが、澄元方を支持する国人の反抗もあって大敗した。
永正8年(1511年)、澄元は細川政賢・細川尚春らと(芦屋河原の合戦)、また河内守護畠山尚順らと(和泉・深井城深井の合戦)合戦に及ぶ。
そして播磨国・備前国守護赤松義村などと連携して京に侵攻する。
高国・義興は一時は劣勢に追い込まれ、将軍足利義稙を擁して丹波国に撤退余儀なくされる。
しかしこの最中に、阿波勢の擁する前将軍義澄が病死する。
8月、高国・義興軍が船岡山合戦に勝利した。
細川政賢は自害し、澄元は阿波に撤退する。
永正14年(1517年)、三好之長は淡路水軍を掌握するため淡路に侵攻し、淡路守護細川尚春は和泉の堺に逃亡した。
永正15年(1518年)8月、出雲国の尼子氏や安芸の武田氏などが不穏な動きを見せ、麾下の国人の離反も相次いだため、大内義興が周防に帰国する。
永正16年(1519年)5月、細川尚春は澄元に降るが、之長に殺害される。
同年11月、澄元・之長らが摂津国兵庫に上陸、瓦林正頼(別名:河原林政頼)の越水城を落とす(越水城の合戦)。
永正17年(1520年)2月、高国が摂津で澄元・之長に敗れ、将軍義稙は澄元側に通じる。
高国は近江坂本に逃走するが、近江の六角定頼・京極高清、丹波の内藤貞正らの支援を得て5月、京に侵攻し、澄元・之長を破る。
之長は高国に拝謁し助命を請うが、細川尚春の養子・細川彦四郎の要求で自害に追い込まれる。
また、澄元は摂津に追放され、6月、阿波勝瑞城で病死。
永正18年(1521年)3月、高国は対立した将軍義稙を追放し、新たに足利義晴を12代将軍として擁立した。
8月、大永に改元。
この年、赤松義村の重臣浦上村宗、義村を幽閉ののち暗殺。
大永4年(1524年)10月、高国の重臣香西元盛・柳本賢治らが阿波勢の残党を和泉で破る。
大永6年(1526年)7月、丹波守護細川尹賢の讒言により、高国が香西元盛を謀殺。
元盛の兄・波多野稙通・柳本賢治らは阿波の細川晴元・三好元長と連携して丹波で挙兵。
高国は細川尹賢を丹波に侵攻させたが敗退。
大永7年(1527年)2月、波多野稙通・柳本賢治らが京に侵攻。
高国・尹賢は桂川で迎え撃つが敗れ、将軍義晴を擁して近江坂本に逃亡(桂川の戦い)。
前将軍義稙の養子・足利義維(義晴の弟)を擁する晴元・元長は堺に進出し、京の支配を行う(堺公方)。
享禄元年(1528年)、高国は京奪回を試みるが、晴元に敗れる。
細川尹賢、晴元方に寝返る。
享禄3年(1530年)、柳本賢治が播磨出陣中に死去。
高国は浦上村宗と連携して京に侵攻。
享禄4年(1531年)3月、高国は三好元長の反撃を受けて摂津国中嶋の戦いで大敗。
6月、さらに高国は大物崩れで元長に敗れて尼崎市に逃走したが、捕らえられ自害した。
浦上村宗も討死。
7月、細川尹賢が木沢長政に殺害される。
長政と元長が対立するようになるが、細川晴元は長政を寵愛する。
天文 (元号)元年(1532年)6月、晴元は本願寺証如や木沢長政と結び、一向一揆に堺の元長を攻めさせる。
元長は敗れて自害。
晴元は将軍義晴と和睦する。
この後、享禄・天文の乱が勃発。