王朝交替説 (Changes of Dynasties Theories)
王朝交替説(おうちょうこうたいせつ)は、日本の古墳時代に天皇家の皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説。
概要
第二次世界大戦前まで支配的であった万世一系という概念に対する批判・懐疑から生まれたもので、昭和27年に水野祐が唱えた三王朝交替説がその最初のものでありかつ代表的なものである。
ただし、それに先立つ昭和23年に江上波夫が発表した騎馬民族征服王朝説も広い意味で王朝交替説であり、崇神天皇を起点とする皇統に着目している点など水野祐の説が江上波夫の説の影響を受けていることを指摘する学者もいる。
のち水野自身、自説をネオ狩猟騎馬民族説と呼んでいる。
また、古代天皇の非実在論に基づいている点は津田左右吉の影響を受けており、九州国家の王であった仁徳天皇が畿内を征服して王朝を開いたという説は邪馬台国九州説の発展に他ならず、戦前の抑圧された古代史研究から開放された自由な発想により様々な説を自由に組み合わせてできた学説であるといえる。
水野の三王朝交替説はその後様々な研究者により補強あるいは批判がなされていくが、現在では万世一系を否定する学者でも水野の唱えるように全く異なる血統による劇的な王権の交替があったと考えるものは多くない。
水野のいう「王朝」の拠点が時代により移動していることも政治の中心地が移動しただけで往々にして見られる例であり、必ずしも劇的な権力の交替とは結びつかないとされている。
また、近年では、ある特定の血統が大王(天皇)位を独占的に継承する「王朝」が確立するのは継体・欽明朝以降のことで、それ以前は数代の大王が血縁関係にあっても「王朝」と呼べる形態になっていなかったとする見解が主流になっている。
水野祐「三王朝交替説」
昭和初期(戦前)、津田左右吉は記紀が天皇家の日本統治の正当性を高めるために高度な政治的な理由で編纂されたとの意見を表現し、有罪判決を受けた。
しかし、時代はかわり、日本は戦争に敗れ、戦後となると記紀批判が行えるようになった。
そのような事情のなかで、昭和29年(1954年)、水野祐が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表。
この著書で水野は、古事記の記載(天皇の没した年の干支や天皇の諡など)を分析した結果、崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てたが、これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であった。
水野は、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。
そして、15代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開した。
仮説では、記紀の天皇の代数の表記に合わせると、第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝の興廃があったとされる。
崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在し、現天皇家は継体王朝の末裔とされている。
水野祐の学説は当時の学界で注目はされたが賛同者は少なかった。
しかし、その影響は小さくはなかった。
水野の学説を批判的に発展させた学説がその後、古代史学の学界で発表されたのである。
井上光貞の著書『日本国家の起源』(1960年、岩波新書)を皮切りに、直木孝次郎、岡田精司、上田正昭など、古代史学のエキスパートによって学説が発表され、王朝交替説は学界で大きくクローズアップされるようになった。
古代史の学説を整理した鈴木靖民も王朝交替論は「古代史研究で戦後最大の学説」と著書『古代国家史研究の歩み』で評価している。
また、王朝交替説に対して全面的に批判を展開した前之園亮一も著書『古代王朝交替説批判』のなかで、万世一系の否定に果たした意義を評価している。
3つの王朝について
崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在した可能性は上記で記したとおりだが、それらについて詳しく述べる。
崇神王朝(三輪王朝)
崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよばれている。
水野祐は古王朝と呼称した。
この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれることもある。
この名称はこの時期に限られており、後代に贈られた和風諡号とは考えられない。
崇神の名はミマキイリヒコイニエ、垂仁の名はイクメイリヒコイサチである。
他にも崇神の子でトヨキイリヒコ・トヨキイリヒメなどがいる。
ただし、崇神・垂仁天皇らの実在性には疑問視する人も多い。
古墳の編年などから大型古墳はその時代の盟主(大王)の墳墓である可能性が高いことなどから推測すると、古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和古墳群・柳本大塚が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測する研究者もいる)、行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ山古墳、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことがわかる。
さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げた大古墳のある地域と重なっていることを考え合わせると、崇神に始まる政権はこの地域を中心に成立した推測でき、三輪政権と呼ぶことができる。
日本古代国家の形成という視点から三輪政権は、初期大和政権と捉えることができる。
この政権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半と推測されている。
それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。
政権の性格は、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」卑弥呼を女王とする邪馬台国の呪術的政権ではなく、宗教的性格は残しながらもより権力的な政権であったと考えられている。
応神王朝(河内王朝)
応神王朝は天皇の宮と御陵が河内に多いことから河内王朝ともよばれている。
この王朝に属する天皇や皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。
河内王朝は上記の王朝交替論のなかでも大きな位置を占める。
その理由は、前後の二つの王朝を結ぶ位置に河内王朝が存在するからである。
水野祐は中王朝と呼称し、一般に初期大和政権、第2次大和政権などと呼ばれる王朝である。
なお、応神天皇を架空の天皇とする見解もある。
応神天皇の出生が伝説的であることから、応神天皇と仁徳天皇は本来同一の人格であったものが三輪王朝と河内王朝を結びつけるために二つに分離されて応神天皇が作り出されたとする説で、この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。
水野祐も仁徳王朝としている。
河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王が10回にわたり遣使したという記事があり、それが傍証となり、倭の五王が河内王朝の大王であったことはほぼ間違いないとされることから、個々の大王に関しての比定は諸説あるとしても、王朝全体の実在の可能性は高い。
また、大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(応神天皇陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、15代応神は難波の大隅宮に、16代仁徳は難波の高津宮に、18代反正は丹比(大阪府松原市)柴垣に、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどから、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことがわる。
河内に本拠地を置き、河内湾に港を築き、水軍を養い、瀬戸内海の制海権を握っていたことは確かである。
また、たびたび宋へ遣使を行い、朝鮮半島への外征も行うなど航海術に関しても優れたものを持ち、アジアへとつながる海洋国家であったことがわかる。
この河内王朝説を批判する論者に門脇禎二がいる。
門脇は河内平野の開発は新王朝の樹立などではなく、初期大和政権の河内地方への進出であったとする。
また、河内王朝説でも直木孝次郎、岡田精司の瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し、それを打倒したとする説や上田正昭の三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野、井上の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説とがある。
継体王朝(近江王朝)
継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかは判断がわかれている。
水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。
また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和にはいったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇は女系の天皇で、近江の息長氏などは大王家に妃を何度となく入れているが、継体天皇はその大王家の母方といえる息長氏系統の王位継承資格者で、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。
なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、ヨーロッパ的な王朝の概念からみればこれは立派な別王朝であり、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い。
ただし、継体天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また血統の点でも前の大王家の皇女を妻として入り婿の形で皇位を継承していることなどから、これを「王朝」として区別できるかどうか疑問とする考え方もある。
葛城王朝説
鳥越憲三郎が唱えた説で、三王朝交替説では実在を否定されている神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。
詳細は欠史八代実在説からの反論の「葛城王朝説」を参照。
河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。
仁徳は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭などの3天皇を産んでいる。
また、履中は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。
さらに、仁徳は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。
こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。
騎馬民族征服王朝説
江上波夫が唱えた説で、大陸の狩猟騎馬民族が北九州を経由して4世紀末頃大阪平野に上陸し、征服国家を打ち立てたとする。
九州王朝説
邪馬台国九州説を発展させ、大宰府(太宰府)を首都とする九州王朝が成立したが、663年(天智元年)「白村江の戦い」の敗北をきっかけとしてヤマト王権により滅亡させられたとする古田武彦が唱えた九州王朝説の所論によれば、大化の改新として仮託された事件により後の天智天皇・天武天皇が権力奪取する以前の記紀の神代神話と皇統譜や事跡の記述の多くは九州王朝からの剽窃による創作であり、それまでのヤマト王権は統一王朝ではなかったとする。
両王朝並立をもって古田の「多元的古代史観」という。