田辺城の戦い (Battle of Tanabe-jo Castle)

田辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)とは、慶長5年7月19日 (旧暦)(1600年8月27日) から9月6日 (旧暦)(1600年10月12日)にかけて、丹後国の田辺城 (丹後国)(現在の京都府舞鶴市)をめぐり起こった戦い。

経緯

豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康は慶長5年(1600年)、度重なる上洛命令に応じない会津の上杉景勝を逆臣として討伐すべく、会津攻めを開始した。
そして家康らが軍勢を率いて東に向かったため、畿内一帯は軍事的空白地域となった。
これを見て、かねてから家康と敵対していた石田三成は、豊臣氏擁護の立場から挙兵した。
これにより、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による東西合戦が幕開けすることとなる。

石田三成ら西軍は、まずは畿内を制圧すべく、家康方についた畿内の諸大名の制圧に務めた。
そのひとつに、丹後の細川忠興の居城・田辺城があった。
細川忠興は豊臣氏の武断派の一人で、石田三成とはかねてから対立していた。
このため、東軍に与して会津攻めに参加していたのだが、石田三成はその田辺城を制圧するために、西軍に与した小野木重次(小野木公郷)・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・早川長政ら、丹波国・但馬国の諸大名を中心とした軍勢、1万5000人に攻撃させたのである。

このとき、田辺城は忠興の父・細川幽斎が留守の兵、500人で守備していた。
幽斎は頑強に抵抗したものの、やはり援軍の見込みのない籠城戦の上、兵力の差がありすぎたため、7月19日から始まった攻城戦は、7月末には落城寸前となったのである。
しかし、小野木ら西軍の諸将の中にも、幽斎を歌道の師匠として仰いでいる者も少なくなかった。
そのため、田辺城を攻め落とすことに躊躇していたのである。

一方、朝廷の後陽成天皇は、幽斎が討死することを恐れた。
なぜならば、幽斎は三条西公条から歌道の奥義を託された古今伝授の中継ぎ継承者だったからである。
そのため、天皇は家臣を遣わして開城を勧めたが、幽斎にも武士としての面目があったためにこれを拒絶し、古今相伝の和歌集に証明状を添えて天皇や八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)に進呈するに留まった。

だが、天皇はあくまで幽斎の身を惜しんだ。
なぜならば、幽斎は歌道の達人だっただけではなく、足利義昭時代から公家とも親密な関係にあったからである。
そのため、天皇は三条西実世(大納言)と中院通勝(中納言)、烏丸光広(近衛府内部官職)の三人を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、勅命講和を命じたのである。
勅命ということで、優位であった小野木ら西軍も拒絶することがでず、9月6日に幽斎は西軍に田辺城を開城して明け渡し、敵将・前田茂勝の居城である丹波亀山城に入った。

意義

この田辺城の戦いは結果的には西軍の勝利であるが、戦略的には敗北であった。
なぜならば、9月6日に幽斎を降した小野木らの丹波・但馬の諸大名を中心とした西軍は、それから9日後の関ヶ原の戦いに間に合わなかったからである。
1万5000人の兵力が本戦に参加できなかった意味は大きい。
ここにも、西軍の作戦ミスがあったといえる。

[English Translation]