百地丹波 (MOMOCHI Tanba)
天正7年(1579年)の伊賀攻めでは暗愚の武将・信雄の拙い指揮に助けられたこともあって織田軍を撃退した。
しかし、天正9年(1581年)の伊賀攻めでは織田軍5万の大軍により侵攻を受ける(伊賀流天正伊賀の乱)。
これに対して丹波は、柏原の砦に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに織田の大軍の前に、多くの一族と共に戦死した。
ただし、異説として文禄4年(1595年)くらいまで生きていたという説もある。
乱の後、「ち」が血に通じることを嫌って、一族は「ももち」の読みを「ももじ」に改めたという。
百地 丹波(ももち たんば、永正9年(1512年) - 天正9年(1581年)?)は、戦国時代 (日本)の伊賀流忍術の祖とされる忍者。
名は百地 三太夫(ももち さんだゆう)とも言われている。
しかし、近年では丹波と三太夫は別人で、三太夫は丹波の孫ではないかとも言われている。
経歴
名張市の出身で、表面上は伊賀一帯を仕切る土豪だったが、裏では伊賀忍者の上忍で、伊賀忍者を統括する3人組の一人であったと言われている。
天正年間には、伊賀一帯にその勢力を広げて、最盛期を築き上げた。
ところが、忍者の実力に脅威を覚えた織田信長は、次男の織田信雄に命じて伊賀攻めを行わせた。
石川五右衛門は丹波の弟子という説がある。
しかし、その五右衛門には妻を奪われたうえ、その妻にそそのかされた五右衛門によって愛妾を殺害されるなど、散々な関係にあったと言われている。