百姓 (Hyakusho)

百姓(ひゃくしょう/ひゃくせい/おおみたから)とは、元は百(たくさん)の姓を持つ者たち、すなわち有姓階層全体を指す漢語であった。
語義は時代により変化している。

概略
中国
周代から春秋時代には、特に古来の "姫" や "姜" といった族集団名でもある "姓" を持つ卿士大夫層(宋代の科挙試験エリートではなく、古代の族長層)を指す用語であった。
その後、族集団が解体し、庶民でも持つ家族名である "氏" と本来の "姓" の混同が進み、庶民でもほとんど姓を持つとされるようになった。

そのため、百姓の語は "天下万民・民衆一般" を指す意味に転化した。
民衆を意味する百姓は、『論語』・『易』など戦国時代_(中国)に現在の形に編集されたと推定される書物から、頻見される。
その後、今日まで意味が大きく変化することはなく、現在中国でも老百姓といえば、一般庶民のことを指す。

日本
日本においては当初は中国と同じ天下万民を指す語であった。
しかし、古代末期以降、多様な生業に従事する特定の身分の呼称となった。
具体的には支配者層が在地社会において直接把握の対象とした社会階層が百姓とされた。
この階層は現実には農業経営に従事する者のみならず、商業や手工業、漁業などの経営者も包括していた。
だが、中世以降次第に百姓の本分を農とすべきとする、実態とは必ずしも符合しない農本主義的理念が浸透・普及し、明治時代以降は、一般的に農民の事を指すと理解されるようになった。
百姓を農民の意味とした初見は、現在のところ9世紀末に編纂された『三代実録』である。

なお、本来の意味で用いる漢文の読み下し及び日本の古代の用例には漢音と呉音の混交した "ひゃくせい"、日本の中世以降の用例には呉音の "ひゃくしょう" の読みを当てるのが慣例である。
純粋に漢音で発音した場合は "はくせい" となる。
日本固有の大和言葉では、 "天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である万民" を意味する、 "おおみたから" の和訓がふられている。

以下に日本における百姓像の変遷を記す。

古代
律令国家
古代においては律令制のもとで戸籍に "良" と分類された有姓階層全体、すなわち貴族、官人、公民、雑色人が百姓であり、天皇、及び "賎" とされた無姓の奴婢などの賎民、及び化外の民とされた蝦夷などを除外した概念であった。
百姓に属する民の主体であった公民は、平安時代初期までは古来の地方首長層の末裔である郡司層によって編成され、国衙における国司の各国統治、徴税事務もこの郡司層を通じて成された。

しかし8世紀末以降、律令による編戸制、班田収授法による公民支配が次第に弛緩していくのと並行して郡司層による民の支配と編成の機構は崩壊し、新たに富豪と呼ばれる土着国司子弟、郡司、有力農民らが出挙によって多くの公民を私的隷属関係の下に置く関係が成立していく。

前期王朝国家
そのため、国衙は国司四等官全員が郡司層を介して戸籍に登録された公民単位に徴税を行うのではなく、筆頭国司たる受領が富豪層を把握して彼らから徴税を行うようになった。
この変化は9世紀末の宇多天皇から醍醐天皇にかけての国政改革で基準国図に登録された公田面積を富豪層に割り当て、この面積に応じて徴税する機構として結実した。
これによって10世紀以降、律令国家は王朝国家(前期王朝国家)に変質を遂げた。
ここで公田請作の単位として再編成された公田を名田、請作登録者を負名(ふみょう)と呼び、負名として編成された富豪を田堵(たと)と呼んだ。
こうして形成された田堵負名層がこの時代以降の百姓身分を形成した。
百姓は請作面積に応じた納税責任を負うが、移動居住の自由を有する自由民であった。
彼らの下に編成された非自由民に下人、従者、所従らがいた。

律令国家においては戸籍に登録された全公民が国家に直接把握の対象となりそれがすなわち百姓であった。
王朝国家においては国家が把握する必要を感じたのは民を組織編制して税を請け負う田堵負名層だけとなり、それがすなわち百姓となった。
換言すれば、田堵負名層の下に編成された下人、従者、所従らは国家の関心の埒外となったとも言えよう。
また、国家権力や領主権力が把握対象として関心を示す範囲の階層こそが百姓であるという事態は、以後の歴史においても基本線となっていくことに注目してよい。

前期王朝国家において、田堵負名層は在庁官人として国衙の行政実務に協力する一方で、しばしば一国単位に結集して朝廷への上訴や受領襲撃といった反受領闘争を行った。
彼らの鎮圧や調停を担う軍事担当の実務官人として武士が誕生した。
しかしこの時期の武士はまた、自らも田堵負名として軍人としての経済基盤を保証される存在であった。

後期王朝国家
11世紀半ばになると、朝廷の内裏造営などを目的とした臨時課税を目的に全国に一国平均役を課すことがしばしば行われるようになった。
そのため非公認の荘園への課税を可能にするため、荘園の公認化と領域を統合する一円化が行われた。
これによって体制は国衙が支配する公領と荘園が対等な権利主体として境界設定などで抗争する後期王朝国家へと変化する。
これ以後の荘園と公領を単位とした社会構造を荘園公領制と呼ぶ。

百姓、すなわち田堵負名層は公領に属する者と荘園に属する者に分かれ、荘園公領間の武力抗争の当事者となった結果、前期王朝国家に見られたような一国単位に結集する闘争形態は急速に消滅した。

公認一円化した荘園からの一国平均役は荘官を通じて徴税されたが、それに対応して公領も新たに郡、郷、保単位の地域再編が行われた。
徴税、警察、裁判責任者としての郡司、郷司、保司が置かれ、彼らを通じて徴税が行われた。
荘官、郡司、郷司、保司は荘園公領間の武力抗争に耐えうる人物が期待されるようになり、古来の郡司一族が失脚して武士がその任に当てられることが多くなっていく。
こうして荘官、郡司、郷司、保司の資格のもと、武士が在地領主として国内百姓の支配を行う形が確立する。

中世
治承・寿永の乱によって源頼朝が鎌倉殿となり鎌倉幕府を開くと、鎌倉殿に臣従した武士である御家人をこれまでの郡司、郷司、荘官に代えて地頭に任命した。
彼らは御家人としては鎌倉殿に奉仕し、地頭としては従来の郡司、郷司、荘官の任を引き継いで、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕した。
この体制下で荘園と公領の軍事衝突は収束を迎えた。
荘園と公領は前代に引き続き名田に分割編成され、百姓はこの名田の名主に補任(ぶにん)されて年貢(ねんぐ)、公事(くじ)、夫役(ぶやく)の納入責任を負った。
名主百姓はさらに小百姓、小作人、間人(もうと)といった領内下層民に対する支配権である名主職を有し、これを世襲した。

定義

江戸時代には、(1)田畑と(2)家屋敷地を所持し(検地帳名請人)、(3)年貢と(4)諸役の両方を負担する者を百姓(本百姓・役家)とした("初期本百姓")。
なお、百姓は戦時においては小荷駄などを運搬する陣夫役を負担する者とされた。
しかし、初期・前期の村落内では前代を引き継ぐ階層差が大きく、(1)(2)(3)(4)(5)のどれかを欠く家(小百姓あるいは多様な隷属民)も多数存在していた。
役家制の地域では、賦役を負担する量や種類によって、本役・半役・四(小)半役・水役などに分かれている場合もある。

変遷

江戸幕府をはじめとした領主は、このような本百姓数の維持増加に努め、平和が続いたことによる社会の安定化によって耕地の開発も進んでいった。
次第に本百姓の分家や隷属民の "自立" 化が進み、17世紀の半ば以降には、村請制村落が確立していき、(1)田畑や(2)家屋敷地を所持する高持百姓が本百姓であると観念されるようになった。
初期本百姓が村内で持つ影響力に依拠しなければ年貢諸役を集めることが難しかったが、村請制に依拠できる体制が完成したと評価することもできる。

しかし、原理的には(1)(2)(3)(4)(5)の条件は貫徹していた。
例えば、村落に住むエタ身分のなかには、高持の者がいた。
彼らはその持高に応じた(3)年貢と(4)諸役(の一部)を負担したが、(5)陣夫役は負担しないので、百姓ではなかった。
また、山村や海付村落には(1)田畑のない村落(集落)も存在した。
そのような村でも(2)家屋敷地は必ずあり、それらを所持する高持百姓が本百姓とされた。

江戸時代中後期の社会変動によって、百姓内部での貧富の差が拡大していくようになる("農民層分解")。
高持から転落した百姓は水呑百姓や借家などと呼ぶようになった。
その一方で富を蓄積した百姓は、村方地主から豪農に成長していった。
また、村役人を勤める百姓を大前百姓、そのような役職に就かない百姓を小前百姓と呼ぶようになった。

多様な生業

実際の村落には多様な生業を持つ者が住んでいた。
百姓=農民というイメージは江戸時代から続く古い俗説であるが、実際には現代の "兼業農家" よりも広い生業を含んでいる。

諸職人
大工・鍛冶は、職人身分に属する者が営む場合、水呑・借家あるいは百姓が営む場合、があった。

木挽・屋根屋・左官・髪結い・畳屋は、水呑・借家あるいは百姓が営んだ。

宗教者
神職:江戸時代においては、吉田家と白川家(伯家)が本所として全国の神社・神職を配下にしようと争奪しあう状況にあった。
しかし、幕末に至っても両家による全国編成は完了せず、百姓身分のまま神職を勤める "百姓神主" がかなりの割合で存在していた。
神職身分を獲得したい百姓神主と百姓身分に留めたい村落側との意向が異なる場合があり、百姓神主と村落とが裁判を繰り返すこともあった。
その一方で、本所の配下になることを忌避する百姓神主も存在した。

僧侶:すべて僧侶身分である。

修験
雑芸民
医者:水呑・借家あるいは百姓が営むことが多かった。
しかし、領主との関係、あるいは出自などの由緒によって "浪人" として扱われる場合もあった。

商人:水呑・借家あるいは百姓が営んだ。
江戸時代には商人身分は存在せず、士農工商の "商" は町人を指した。

漁民:水呑・借家あるいは百姓が営んだ。
江戸時代には "漁民" 身分は成立しなかった。

以上のように、村落にはさまざまな生業で生計を立てている者たちが存在していた。
彼らがどの身分集団に属するのかは、身分集団を編成する本所の動向、身分集団自体の成熟度に左右されることがわかる。
その生業の種類とともに、時期と地域による差も大きかったのである。

現代的百姓観の形成と変遷
近代になり西洋近代歴史学が導入されるとマルクス主義史観に代表される発展段階史観の概念に基づいた過去の日本の歴史の分析が行われるようになり、歴史的百姓身分を封建制段階における農奴身分と規定することが通説となった。
こうした歴史学の影響で百姓はすなわち農民であり、封建的遺制のもとで収奪される被支配民という概念が生まれた。
また、百姓身分の活動の場であった在地の村社会から人材を引き抜く形で近代的第二次産業、第三次産業が成立し、近代的生業との対比としての古来の生業の従事者が百姓であるとする観念も生じた。
都市を洗練、田舎を野卑とする古くからの観念とあいまって、戦後社会では百姓を農業に従事する者に対する差別的な呼称であると捉える傾向が生じ、このため農業従事者が "百姓" と自称する場合を除き、マスコミなどでは "百姓" という表現を控える事が多い。
歴史を取り扱ったテレビ番組で本来の意味での百姓身分を指す場合ですら "農民" という言葉に置き換えることが通例である。
水戸黄門などでは農民を徳川光圀が呼称する場合 "お百姓" と接頭辞 "お" を付けている。
自主規制が盛んになる前ではヤクザものや不良抗争ものの漫画・映画などでのフィクションでもケンカ相手に対して "百姓" と呼ぶシーンが散見された。
これは百姓=農民=田舎者=ダサい奴という図式での、格好を重視する不良やヤクザの間でのあまり深い意味のない単なる悪口である。
それだけにどうにでも言い換えの利く言葉でもあり、確信的に農民を貶める目的があろうはずもなく前述のとおり自主規制によってあまり聞かれなくなった。

近年、歴史学者の網野善彦が中世社会、近世社会における百姓身分に属する者たちが農民、山民、漁民、職人、商人などの広範な生業の従事者であったことを明らかにし、 "百姓=農民" と一概にまとめた従来の歴史観に対し批判を行った。
さらに今日の歴史学では西欧中心の単線的な発展段階史観が強く批判されるようになった。
そのため百姓が差別的な用語であるという認識は薄まってきている。

また現実の農業従事者は必ずしも百姓という呼称を差別的だととらえているとは限らず、むしろ一部の篤農家は自らを誇ってあえて百姓と自称する向きも見られる。
こうした篤農家には歴史的百姓層が自らさまざまな生業を兼ね、またモノカルチャー化を避けて多様な農作物を栽培したことの復権にアイデンティティーをおく者もいる。
彼らは生業や農作物の多様性に "百姓" の "百" の字義を投影し、しばしばこうした多様性を持った農業を行う者こそが "百姓" であると定義する。

"百姓" という呼称は、用法において当該の主体が用いる場合と、第三者が用いることには全く意味が違うことに留意すべきである。
すなわち上記のマルクス史観的に捉えれば、 "百姓" というのは本来差別的な意味を内包する用法にもかかわらず、自分達の階級に対する対自的な把握手法として認識された場合、それは転換されたスティグマとして、他者に対するアイデンティティの示威としての意味を持つことになる。
すなわち "俺たち百姓は…" という発話にはある種の誇りの意味合いさえ含まれるといって過言ではない。
これに対し個々の農民に対して "百姓" と呼び捨てることは、スティグマをそのまま負の意味で受容させることになり、強い蔑称の意味を含むことになる。

[English Translation]