真土事件 (Shindo Incident)

真土事件(しんどじけん)は1878年(明治11年)、神奈川県大住郡真土村(現平塚市)に起こった農民暴動。
「真土騒動」「松木騒動」とも言う。

村の戸長は勝手に村人の質地を自分の名義に変えてしまい裁判となる。
一審では村人が勝訴したが、二審では敗訴。
再審の費用の無い村人は暴動を起こし、戸長一家を殺害した。
また泉鏡花はこの事件を素材とした『冠弥左衛門』を書いて文壇にテビューした。

経過

1876年(明治9年)11月、冠弥右衛門ら六五名は区長兼戸長職にあった松木長右衛門に土地の請け戻しを横浜裁判所に訴え、勝訴。

1878年(明治11年)9月、松木は上等裁判所に控訴。
二審では冠弥右衛門らは敗訴し、訴訟費用や延納小作料の厳しい請求を受けた。
大審院への控訴費用がないどころか、凍餓の危機を迎える。

1878年(明治11年)10月26日深夜、冠弥右衛門以下26名の村民が松木長右衛門の家を焼打にし、7名殺害、4名に傷を負わせた。

影響・その後

事件発生から一ヶ月の間に約1,800名による冠らの助命嘆願書が県庁に寄せられた。
翌年までに15,000名の署名が集められた。

1879年(明治12年)5月、建長寺住職の松本等隣は、円覚寺住職の今北洪川、清浄光寺(藤沢・遊行寺)住職の他阿尊敬とともに神奈川県令野村靖宛に減刑の「嘆願書」を提出。

1880年(明治13年)、武田交来『冠松真土夜嵐』刊。

1881年(明治14年)6月、初代柳亭燕枝(談洲楼燕枝 (初代))(仮名垣魯文の弟子のあら垣痴文)は横浜市住吉町港座で『深山の松木間月影』を上演。
主演は中村時蔵、板東しうか、嵐芳五郎ら。
未曾有の大入りで、特に時蔵の弥右衛門が好評であったという。

1881年(明治14年)7月、横浜市羽衣町下田座(さの座)にて『真土の松庭木植換』上演。
出演は板東彦十郎、中村伝五郎、市川寿美之丞ら。
未曾有の大入りであったという。
1880年説もある。

1882年(明治15年)2月15日、冠弥右衛門、養親を理由として、収贖(しゅうしょく・罰金での代替)による出獄を許可される。

1883年(明治16年)4月29日、大住郡堀山下村61名の総代として、南条繁次郎以下十数名が、同村山口太平宅に押し寄せて恐迫。

1883年(明治16年)10月14日、同郡小易村農民40余名が、同村字丹沢山に集結して竹槍などを持ち出して、同村大森幾太郎、大津定右衛門、鈴木三右衛門らを襲おうと計画。

1884年(明治17年)3月29日夜、同郡吉際村ほか7ヶ村の民40余名が大神村字八幡下に集結して戸田村小塩八郎右衛門からの負債返済方法を協議し、不穏の形勢を示す。

1884年(明治17年)3月、冠弥右衛門鎌倉の光明寺に徒弟入りし、全国の寺社巡礼開始。

1884年(明治17年)5月15日、淘綾郡山下村の近藤甚蔵ほか10名が同郡一色村の高利貸露木卯三郎とその雇人露木幸助を大磯宿の旅館川崎屋に襲って両人を斬殺。
首謀者5名は大磯宿で斬罪の酷刑。
以後、この種の事件止む。

1888年(明治21年)、冠弥右衛門帰郷。
平塚市八幡長善寺に入り、12月15日に死去。

1892年(明治25年)10月1日、泉鏡花『冠弥左衛門』京都の「日出新聞」に掲載開始。
同年11月20日まで。
鏡花の文壇デビュー作。
「弥右衛門弥」を「弥左衛門」と変えている。

[English Translation]