禁裏御守衛総督 (Kinri Goshuei Sotoku (post to guard Kinri Palace))

禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)とは、江戸時代末期(幕末)に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護する為に設置された役職のことである。
任命された徳川慶喜は、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮という役職にも同時に任命された。

元治元年(1864年)3月25日、一橋慶喜(徳川慶喜)は、将軍後見職を免ぜられると同時に禁裏御守衛総督に就任した。
朝廷から任命された役職ではあるが、禁裏御守衛総督の役料として幕府より月に7500俵受け取る合意を得た。
また、本陣を東寺に置いた。
配下に京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬らを従え、江戸の幕閣達から独立した動きをみせ、 在京幕府勢力の指導的役割を果たす存在となった。
→(一会桑政権を参照)。

元治元年(1864年)5月、慶喜は摂津国沿岸を視察している。
同年7月、慶喜は禁門の変において会津藩、桑名藩、大垣藩、薩摩藩等の在京諸藩勢力の総指揮を執り、禁裏から長州藩勢力を撃退している。
慶応元年 (1865年)、政務輔翼を命じられている。
慶応2年(1866年)7月31日、慶喜は総督職を辞任し、徳川宗家を相続した。
その際に役職としての禁裏御守衛総督は自然消滅するに至った。

[English Translation]