第1次桂内閣 (First Katsura Cabinet)
この後、10年以上にわたって続く桂園時代の初めの内閣である。
概要
前の第4次伊藤内閣の崩壊後、当初井上馨に大命降下された。
が、期待していた渋沢栄一の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。
元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。
山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、「二流内閣」と揶揄された。
議会における与党は帝国党のみであり、伊藤博文の立憲政友会と大隈重信の憲政本党は野党に回った。
伊藤博文の立憲政友会は軍備増強の必要性は認めたものの、桂の進める地租増徴ではなく行財政改革の徹底を求めた。
だが、親政友会の奥田義人法制局長官による行財政改革案を葬って辞任に追い込んだことが伊藤を含めた政友会の怒りを買って内閣を攻撃し、一時は大日本帝国憲法の停止を検討する程(5月19日山縣有朋宛の桂書簡(「山縣有朋文書」))の危機的状況を迎えていた。
桂はこの事態を乗り切るために外交では日英同盟を締結してロシア帝国との対決姿勢を強め、内政では伊藤博文を枢密院議長に祭り上げて政友会総裁を辞めさせることに成功した。
だが、政友会は代わりに総裁になった西園寺公望の元で党内融和が進んでいくことになった。
第1次桂内閣における最大の事跡は日露戦争である。
桂太郎首相は、戦争中の政局の安定を図るため、立憲政友会との提携を希望して原敬との間で次の政権は政友会総裁の西園寺公望に禅譲するという政権授受の密約を交わす(ただし近年の原と桂の双方の日記の研究によって、当初はその時期を明確にしていなかったこと、日比谷焼討事件後の桂内閣の弱体化に危機感を抱いた双方の合意によって具体的な時期が定まったことが明らかになっている)。
政友会の支持を得た第1次桂内閣は日露戦争を乗り切る。
だが、多くの死傷者と度重なる非常特別税などの増税に苦しんだ民衆の不満は日比谷焼討事件となって爆発した。
また外交面ではポーツマス条約・第2次日韓協約・日清満州善後条約の締結によって一応の役割を果たした。
このため、1905年(明治38年)12月に総辞職して、約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ることとなった。
その在任期間は1681日で、1つの内閣としては日本憲政史上最長である。
以後、元老・山縣有朋に支えられた桂と元老・伊藤博文に支えられた西園寺が交互に首班となって組閣したことから、の日露戦争後から、の大正二年の政変までの時期を桂園時代(けいえんじだい)と呼ぶ。
国務大臣