第2次伊藤内閣 (Second ITO Cabinet)
伊藤は8月31日に首相を辞任し、同年9月18日に松方正義が組閣するまで、黒田清隆・枢密院 (日本)議長が内閣総理大臣を臨時兼務した。
概要
前首相の松方正義が自らの閣僚にも見放されて内閣を放り出すという事態は、8月2日に大命を受けた伊藤にも今後の政権運営に不安を抱かせた。
そこで伊藤は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行うことを表明、黒田清隆・山縣有朋の両首相経験者の入閣を得て組閣を終えた。
このため、「元勲内閣」と称された。
なお、同年11月27日に伊藤が乗っていた人力車が馬車と衝突して大破し、転落した伊藤が重傷を負ったために井上馨内務大臣 (日本)が臨時首相代理を翌年2月7日まで務めるという交通事故が起きている。
民党との「政費節減」・「海軍予算」を巡る攻防では、明治天皇よりの「和衷協同」詔勅と内廷費300万円と官吏の俸禄1割削減を条件に妥協を成立させて予算案を通過させ、続いて条約改正交渉末期に差し掛かって民党(立憲改進党)や右翼(国民協会、大日本協会など)の間で高まる対外硬派の動きに対しては2度の衆議院解散をもって対抗して、日英通商航海条約締結による治外法権の撤廃に成功する。
その直後に朝鮮半島で起きた起きた東学党の乱への軍事介入を機に日清戦争が始まると、広島市に大本営と帝国議会を移して戦時体制を確立し、日本を勝利に導いて清国と下関条約を締結した。
この内閣の長期政権化にはこの戦争での勝利の影響が大きい。
だが三国干渉、続く乙未事変と露館播遷によって日本の朝鮮半島への影響力はむしろ低下し、戦時中の政府と民党の協調関係は次第に崩れていった。
そこで1896年、航海奨励法、造船奨励法を定めた。
また、伊藤は超然主義を放棄して自由党 (明治)総裁板垣退助を内務大臣 (日本)として入閣させて、同党の与党化を図る。
続いて前総理・松方正義と進歩党 (日本)党首の大隈重信の入閣を計画するが、これに大隈にライバル意識を抱く板垣と超然主義を固守する山縣が反発、これを見た伊藤はこれ以上の政権維持は困難であるとみて辞表を提出したのである。
国務大臣