脱亜論 (Datsu-A Ron (Argument for Leaving Asia))
脱亜論(だつあろん)とは、明治18年(1885年)3月16日、「時事新報」紙上に掲載された社説を指す。
「脱亜論」は福澤諭吉が執筆したとされているが、原文は無署名の社説である。
昭和8年(1933年)に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に「脱亜論」が収録されたため、「脱亜論」は福澤が執筆した社説と考えられるようになった。
昭和25年(1950年)以前に「脱亜論」に関するコメントは見つかっていない。
見つかっている最初のコメントは、昭和26年(1951年)に遠山茂樹が発表した「日清戦争と福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。
概要
以下、「脱亜論」の原文からの引用を含む。
第1段落より
まず、執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を「文明は猶麻疹の流行の如し」と表現する。
それに対し、これを防ぐのではなく「其蔓延を助け、国民をして早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える。
その点において日本は文明化を受け入れ、「独リ日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し」、アジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。
第2段落より
その上で、「不幸なるは近隣に国あり」として、支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず」と論じる。
そして、甲申政変を念頭に置きつつ両国に志士が出て明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ両国は「今より数年を出でずして亡国と為り」、西洋諸国に分割されてしまうだろう、と予測する。
その上で、甲申政変における清軍の市民への乱暴狼藉を暗に挙げ、このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、間接的ではあるが外交に支障が少なからず出ている事は「我日本国の一大不幸」であると危惧する。
そして、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」といい、東アジアの悪友とは縁を切って近代化を進めて行くことが望ましいと結んでいる。
「脱亜論」掲載前の論説
「脱亜論」の約3週間前の明治18年(1885年)2月23日と2月26日に掲載された論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」がある。
静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋は『福沢諭吉の真実』(文春新書、文藝春秋)、200-203ページ、において、「脱亜論」がこの論説(後編)の要約になっていることに注意している。
そこでは、次の記述が「脱亜論」にも影響を与えたのではないかと指摘している(201ページ)。
人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。
我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。
而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。
我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。
「脱亜論」掲載後の論説
「脱亜論」の5ヶ月後に掲載された論説に、「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」がある。
政府による「私有財産と生命、一国民としての栄誉の保護」が行われない朝鮮の国民であるよりも、各地で支配力を有するようになっていたイギリス人やロシア人に支配される方が、朝鮮の人々(朝鮮人民)にとっては幸福ではないかと強い語気で主張している。
この論説の結尾はこの通りである。
「故に我輩は朝鮮の滅亡、其期遠からざるを察して、一応は政府のために之を弔し、顧みて其国民の為には之を賀せんと欲する者なり。」
中国・韓国での評価
中国・大韓民国では、「脱亜論」は「アジア蔑視および侵略肯定論」であり、福澤諭吉は侵略主義者として批判的に取り上げられている。
一例として、下記の林思雲の論文中で言及されている中国内での理解、そして韓国の新聞中央日報に掲載された金永熙(キム・ヨンヒ)国際問題大記者執筆の2005年11月25日のコラム「日本よアジアに帰れ」がある。
なお、下記の林思雲の論文によれば、現在では氏による「脱亜論」全文の中国語訳が公開されている。
日本での評価
日本の初等・中等教育の歴史教科書においても、「脱亜論」を「日本が欧米列強に近づくためにアジアからの脱却を唱えた物で、日本がアジアの1ヵ国であることを否定している」と定義付け、「日本人がアジアを蔑視する元となった論文」と教えていることが多い。
が、この論文に至った甲申事変や当時の歴史背景を教えてない事も多く、「脱亜論」の一部だけを取り上げて、「脱亜論」を正しく解釈していない、と言う意見も存在する。
これにつき『福沢諭吉書簡集』の編集委員であった西川俊作は「この短い(およそ2,000字の)論説一篇をもって、彼を脱亜入欧の「はしり」であると見るのは短絡であり、当時の東アジア三国のあいだの相互関連を適切に理解していない見方である」と指摘する。
また、坂本多加雄元学習院大学法学部教授は、甲申事変の失敗と清国の強大な軍事力を背景にして、「「脱亜論」は、日本が西洋諸国と同等の優位の立場でアジア諸国に臨むような状況を前提にしているのではなく、むしろ逆に、朝鮮の一件に対する深い失望と、強大な清国への憂慮の念に駆られて記された文章ではないか」と説明する。
さらに、政治学者の丸山眞男は、甲申事変が三日天下に終わったことの挫折感と、日本・清国政府・李氏政権がそれぞれの立場から甲申事変の結果を傍観・利用したことに対する不満から、「「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない」と説明する。
そして、東京大学名誉教授の坂野潤治は、福澤の状況的発言は当時の国際状況、国内経済などの状況的認識と対応していることを強調し、甲申事変が失敗したことにより状況的認識が変化して「脱亜論」が書かれたと説明して、以下のように喝破している。
「これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。」
「福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評論ほど見当違いなものはない」
他には、興亜論へのアンチ・テーゼとして「脱亜論」が発表されたとの考えもある。
また、名古屋大学名誉教授の安川寿之輔は、初期の福澤の思想にも国権論的立場を見出し得るのであるから、「脱亜論」がそれ以前の福澤の考えと比較して特段異なるものとはいえないと指摘する。
ちなみに、小説家の清水義範は、小説中の文学探偵が「脱亜論」を読んだ感想として、次のように語らせている。
「日本は文明国だから、中国、朝鮮を支配していい、なんて考えておらず、当然のことながらそんなことは書いていない。」
「むしろ、西洋列強の野望渦巻く苛烈な国際情勢下で、ひとり先に文明開化した日本が独立をまっとうせんがためには致し方なく中国、朝鮮と袂(たもと)を分かたなければいけない......それが脱亜という選択肢である」
静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋は、「脱亜論」が甲申政変とその後の弾圧に対する影響で書かれた社説であることに注目して、次のように解説している。
「第二次世界大戦後になって、「脱亜論」中の、「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」(全⑩二百四十頁)とか、「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」とかいった記述がことさらに取り上げられることになったが、そうした表現は一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申政変の過酷な事後処理に対する批判にすぎなかったのである。」
「こうした時事的な部分を除いてしまえば、「脱亜論」は、半開の国々は西洋文明を取り入れて自から近代化していくべきだ、という『文明論之概略』の主張と少しも変わらない」
なお、最近の研究では、「脱亜論」が時事新報に掲載された無署名論説であることに着目した論説執筆者判定が展開されている。
また、福澤が「脱亜入欧」という語句を一度も使用していないことに注意する必要がある。
歴史背景
ここでの「悪友」とは、福澤諭吉らの「平等」や「義」や「独立心」を重んずる思想と違って、福澤らから見れば、閨閥、門閥政治、小中華思想(日本蔑視思想)などの旧弊に固執し血なまぐさい権力闘争を繰り返し、事大主義で外交において信義がなく、外交方針がころころ変わる清国や李氏朝鮮という認識で用いられた言葉である。
隣国(朝鮮)に対して日本がとるべきその対処の仕方については、「隣国だからということで特別の会釈、開明の猶予を与えるという方法でなく、西欧の朝鮮に対する対処のしかたと同じくすべきだ」という解釈が一般的である。
脱亜論までの宮廷権力闘争と事大主義外交の歴史背景
当時は朝鮮は、人材登用という思想でなく親族を優先的に高官に抜擢するという旧弊を断ち切れず、閔妃派が興宣大院君派と宮廷での権力闘争を繰り広げていた時であった。
明治6年(1873年)11月
高宗親政(大院君派追放、流刑、処刑。閔氏一族、一挙に30名以上が高官になる)
明治6年(1873年)12月
閔妃宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発(興宣大院君)
壬午事変(明治15年(1882年)7月23日)
興宣大院君派の扇動によって政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。
済物浦条約(明治15年(1882年)8月31日)
壬午事変の善後措置として締結された。
「公使館襲撃事件の犯人の逮捕と処刑、日本側被害者の遺族、負傷者への見舞金5万円、出兵費用補填50万円、公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権、兵営設置費・修理費の朝鮮側負担、謝罪使の派遣等」である。
丙寅教獄
1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧。
(興宣大院君)
このように日朝修好条規、朝鮮修信使の制度ができるまでは、明治初期の1872年頃までの当時の開化派とされた朴珪寿でさえ、彼を含めた朝鮮政府の共通認識は「欧米人は通商によって利益を追求する人倫を欠いた禽獣であり、日本人もまた同様である(倭洋一体)」のようなものだったのである。
興宣大院君派は人材登用の面はあったが総じて小中華思想が強く西欧を排斥した。
閔妃派は門閥主義、閨閥主義で人材登用の気風に欠けていた。
どちらも権力闘争のために入れ替わり近隣外国の力を利用したのでどちらかが「開化派」とはいえなかった。
当時の朝鮮王朝の中で小中華思想や門閥主義、閨閥主義を脱却していた役人は極めて少数派だったのである。
そのように明治政府の朝鮮政府に対する内政改革の要望にもとづいた外交施策がされていた中、福澤諭吉らもそれに反対するようなことはなかったが、その2年後、以下記述するような朝鮮政府の内政改革派(開化派)に対する弾圧を見て、福澤諭吉らは「猶予ある可らず」とか「正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。」とか「謝絶」というそれまでの姿勢とは全く逆の結論に至ることになる。
福澤諭吉と開化派・金玉均らとの関係
甲申政変(明治17年(1884年)12月4日)
当時の李氏朝鮮は、壬午事変(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大主義政策へと方向転換していた。
このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは福澤諭吉や大隈重信をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。
外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。
そして閔妃派は一時、失脚するが数日で清国の力を得て巻き返し、同年12月、甲申政変を支援(内政干渉)した日本公使館が焼き討ちされる事件が起きる。
清朝廷中心の中華思想、小中華思想への急激な回帰、事大主義政治の復活が起き、そうして金玉均などの開化派は危機的状況に陥る。
そうして開化派の金玉均らは井上角五郎(福澤諭吉によって朝鮮王朝に推挙され新聞創刊のために朝鮮王朝に招聘されていた。)の助けによって日本に亡命する。
(朴泳孝・徐載弼の家族は服毒自殺、処刑等にされる。)
その後、朝露密約がされるが、そのような経緯の中で井上角五郎等から具に事情を聞いた福澤諭吉らは、ここに至り事大主義、小中華思想で、平等や義や独立の精神に反する朝鮮王朝政府に見切りをつけた。
つまり、門閥、閨閥政治や中華思想また小中華思想など民族(人種)差別、日本蔑視思想で、「平等」の精神に真っ向から反する思想、親子(姑、嫁)が血みどろの権力闘争を繰り広げ、そのために事大主義に走り独立心がなく外交の一貫性がないこと、と福澤諭吉らから見れば、そう見える朝鮮王朝政府に対し、「天は人の上に人をつくらず...」(『学問のすゝめ』)とする思想を重んじる立場から「脱亜論」に至ったのだ、という解釈がある。
「脱亜入欧」論なのか?
政治学者の丸山眞男は、(福澤諭吉が「脱亜論」を執筆したと仮定しても)福澤が「脱亜」という単語を使用したのは「脱亜論」1編のみであると指摘した。
それゆえ、「脱亜」という単語は福澤においてはキーワードでないと述べた。
さらに、「入欧」という単語にいたっては、福澤諭吉は(署名著作と無署名論説の全てにおいて)1度も使用したことがなく、したがって「脱亜入欧」という成句も福澤が1度も使用していないことを指摘した。
福沢は明治十八年(一八八五)三月十六日の『時事新報』の社説を「脱亜論」と題し、そこで「脱亜」の論旨を展開した。
これが論説の表題として、また社説の内容に、彼が「脱亜」の文字を使用した唯一のケースであって、それ以後、彼のおびただしい著書・論文の中で、この言葉は二度と用いられていない。
ということは、少なくも、「脱亜」という言葉が、福沢において「自由」「人権」「文明」「国権」「独立の気象」といった言葉と並ぶような、福沢のキーワードでなかったことを物語っている。
「入欧」という言葉にいたっては(したがって「脱亜入欧」という成句もまた)、福沢はかつて一度も用いたことがなかった。
起稿者の認定
大妻女子大学教授の井田進也は井田メソッドを駆使して「脱亜論」関連論説の起稿者の認定を行った。
井田メソッドとは、無署名文において使用される語彙や言い回しの特徴を分析して起稿者の認定を行う方法である。
起稿者の認定は、関与の多い方から5段階のA、B、C、D、Eで表す。
井田は『歴史とテクスト――西鶴から諭吉まで』(光芒社、2001年)の104頁で、「脱亜論」の認定を行い、高橋義雄 (茶人)が起稿した可能性を排除できないとして、次のように結論付けている。
「脱亜論」の前段には福沢的でない「東洋に國するもの」、ごく稀な「力めて」「揚げて」、高橋の「了る」(福沢は稀)「横はる」が散見し、自筆草稿が発見されぬかぎり高橋が起稿した可能性を排除できないから、前回同様、福沢が高橋の原稿を真っ黒に塗抹したものとして、ほとんどAとしておこう。
さらに「脱亜論」関連論説の起稿者の認定も行っている。
同書105頁から、「脱亜論」関連論説の認定結果の一覧表を引用する。
高橋は高橋義雄 (茶人)、渡辺は渡辺治のことである。
歴史と影響
以下、静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋による『福沢諭吉の真実』(文春新書、ISBN 4-16-660394-9)、pp.82-85、pp.193-239 からの情報を要約する。
1885年3月16日に脱亜論は新聞『時事新報』の社説として掲載された。
原文は無署名の社説で、本文はカタカナ漢字表記、長さは400字詰原稿用紙で約6枚である。
(pp.195-196)
1885年には、「脱亜論」に対するコメントは見つかっていない。
平山の調査によると、1885年3月16日以後の『時事新報』には、「脱亜論」に関する引用は発見されていない。
また、1885年3月17日から3月27日にかけて、新聞『東京横浜毎日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』にもコメントが発見されていない。
その結果、平山は1885年には「脱亜論」は何の反響も引き起こさなかったと推定している。
(p.203)
その後、1885年から1933年まで「脱亜論」に関するコメントは発見されていない。
そのため、平山は、「脱亜論」は48年間、忘れられていたと推定している。
(p.203)
1933年7月、「脱亜論」が慶應義塾編『続福澤全集』(岩波書店)に収録された。
1933年から1951年までの間、「脱亜論」に関するコメントは見つかっていない。
(pp.204-208)
平山の調査によると、「脱亜論」に関する最初のコメントは、1951年11月に掲載された、歴史学者の遠山茂樹による「日清戦争と福沢諭吉」(『福沢研究〈第6号〉』)の中に発見された。
遠山は、「脱亜論」を日本帝国主義のアジア侵略論と紹介した。
(pp.209-210)
2番目のコメントは、1952年5月に発行された、歴史学者の服部之総による「東洋における日本の位置」(『近代日本文学講座』、河出書房)の中に発見された。
(p.214)
3番目のコメントは、1953年8月に発行された、歴史学者の服部之総による「文明開化」(『現代歴史講座』、創文社)の中に発見された。
(p.217)
4番目のコメントは、1956年6月に発行された、歴史学者の鹿野政直による『日本近代思想の形成』(新評論社)の中に発見された。
(p.218)
1960年6月に、富田正文・土橋俊一編纂の『福澤諭吉全集〈第10巻〉』(岩波書店)に「脱亜論」が収録された。
5番目のコメントは、1960年6月に発行された、地理学者の飯塚浩二による「アジアと日本」(『アジアのなかの日本』、中央公論社)の中に発見された。
(pp.219-220)
6番目のコメントは、1961年6月に発行された、政治学者の岡義武による「国民的独立と国家理性」および中国文学者の竹内好による「日本とアジア」(『近代日本思想史講座』、筑摩書房)の中に発見された。
(pp.220-224)
1963年8月に、竹内は『アジア主義』(現代日本思想大系第9巻)(筑摩書房)の解説「アジア主義の展望」に「脱亜論」の全文を引用している。
(pp.221-222)
1967年4月に、西洋思想史研究者河野健二の『福沢諭吉--生きつづける思想家』(講談社)が発行された。
1967年12月に、鹿野政直による『福沢諭吉』(清水書院)が発行された。
両書は「脱亜論」へのコメントを含む新書版であったため、以来、「脱亜論」は日本帝国主義の理論として有名になった。
(pp.224-225)
1970年代には同様なコメントをつけた論説が多く発行された。
(pp.226-227)
1981年3月に、政治学者の坂野潤治は『福沢諭吉選集〈第7巻〉』(岩波書店、ISBN 4-001-00677-4)の解説で、「脱亜論」の新しい解釈を提示した。
坂野は「脱亜論」を朝鮮近代化の挫折に対する敗北宣言と解釈した。
(p.227)
1996年、比較文学者の井田進也は文体と語彙による起筆者判定方法(井田メソッド)を開発した。
井田は『時事新報』の無署名論説に井田メソッドを適用して起筆者を判定している。
(p.239、pp.82-85)