膳所城 (Zeze-jo Castle)
膳所城(ぜぜじょう)は、現在の滋賀県大津市本丸町にあった城である。
概要
膳所城は大津市街の東部に位置していた。
相模川河口付近にあった膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城である。
日本三大一覧城の一つに数えられ、また大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つである。
陸続きの部分に三の丸を配し、二の丸・北の丸・本丸が琵琶湖に突出していた。
梯郭式の縄張りであった。
本丸には4重4階の天守が上げられていた
水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていた。
近世
徳川家康は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった。
翌、慶長6年(1601年)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせた。
膳所城は天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第1号である。
江戸城、大坂城、名古屋城、福知山城なども天下普請として築かれた。
縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎に計画させた。
湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた。
家康がこの地を選んだ理由として、瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われる。
昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた。
築城された年に大津城主戸田一西を3万石で入城させここに膳所藩が成立した。
以後、譜代大名の居城となった。
その子の戸田氏鉄は元和 (日本)3年(1617年)に摂津国尼崎藩に転封となった。
代わって本多康俊が三河国西尾藩より入城。
その子、俊次は元和7年(1621年)再び西尾へ転封となった。
代わって、伊勢国長島藩より菅沼定芳が入城する。
寛永11年(1634年)丹波国丹波亀山藩に転出。
下総国佐倉藩より石川忠総が入城する。
子の石川憲之は慶安4年(1651年)に伊勢国伊勢亀山藩に転封となった。
石川氏の後は再び西尾藩より本多俊次が7万石で入った。
13代220年の間、本多氏の居城となり明治維新を迎えた。
寛文2年(1662年)には地震があり建造物が倒壊した。
このため俊次は城の大改修を行った。
膳所城は湖沿岸に建造された城であるため、時間を経ると波による浸食に悩まされ続けることとなった。
このため絶えず城の補修を余儀なくされ、これが藩の財政を逼迫させる一因となっていた。
近・現代
明治3年(1870年)新政府の早期実現を望む藩士達により、廃城の太政官布告が出された翌日より天守以下の建物の解体・移築が行われた。
本丸跡は現在は完全に陸続きとなっている。
「膳所城跡公園」として整備された。
石垣がわずかに残っているほか、門が模擬再建されている。
城門は膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されている。
なお、高麗門は大阪府泉大津市松ノ浜の「細見美術館」が所有する地に移築されている。
市内の芭蕉会館に本丸隅櫓が移築され現存している。
しかし、大幅に改造されており原形を留めていない。
平成18年(2006年)には民家に移築されていた瀬田口総門番所が取り壊された。
また、二の丸跡は現在、膳所浄水場となっている。