薩た峠の戦い (南北朝時代) (Battle of Sattatoge (the period of the Northern and Southern Courts))
薩峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩山の戦いとも)は、南北朝時代 (日本)の1351年(正平 (日本)6年/観応2年)12月、駿河国薩た峠(静岡県静岡市清水区)において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦である。
観応の擾乱により、北朝 (日本)は足利尊氏派と足利直義派に分裂した。
直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年(正平6年/観応2年)直義は桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸地方・信濃国を経て鎌倉市へ至る。
尊氏は南朝 (日本)と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た。
足利義詮を京都に残し、仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した。
直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。
両軍は、東海道の難所である駿河国薩峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いでも直義勢を破り、翌1352年(正平7年/文和元年)直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月26日に急死する。
病死とされているが、『太平記』のみは尊氏による毒殺であると記している。