藤原式家 (Fujiwara Shikike (the Ceremonial House of the Fujiwara clan))
藤原式家(ふじわらしきけ)とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。
宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称した。
概要
祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、藤原四兄弟たちと共に聖武天皇朝で政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。
さらに直後に大宰少弐に左遷された宇合の長男藤原広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してしまった(藤原広嗣の乱)。
この為孝謙天皇~称徳天皇朝にかけて、藤原南家(藤原豊成・藤原仲麻呂)や藤原北家(藤原永手)の後塵を許す時期がしばらく続いた。
広嗣の弟である藤原良継や藤原百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。
また、彼らはそれぞれ自分の娘(藤原乙牟漏・藤原旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。
彼ら兄弟はいずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城天皇・嵯峨の両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安時代初期の式家繁栄の礎を築いた。
桓武朝では式家一族は重用され、宇合四男の藤原田麻呂は事実上の臣下最高位であった左大臣にまで昇進し、三男藤原清成の子である藤原種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。
百川の子で桓武天皇の義弟(姉の藤原旅子は天皇の女御)でもあった藤原緒嗣もわずか29歳で参議に昇進すると、長岡京の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を進言した。
平城朝においては観察使制度の設置等政治改革に積極的に取り組み、嵯峨朝を経て旅子を母とする淳和天皇が即位するとその外伯父として累進し、右大臣ついで左大臣に至った。
しかし、嵯峨朝以降式家は徐々に北家に圧倒されていくが、その一因として、良継の一人息子である藤原託美の事故死による、平城・嵯峨両天皇の外戚である良継系の断絶があった。
また、嵯峨朝になると、種継の子で平城天皇の内侍司として権勢を握った藤原薬子とその兄藤原仲成が反乱を企てて断罪された薬子の変の発生に加え、嵯峨天皇・橘嘉智子の信頼を受けた北家の冬嗣の台頭も背景にある。
さらに、冬嗣の息子である藤原良房が嵯峨上皇の皇女源潔姫を降嫁されるなど、父同様上皇と皇太后に深く信任されたのに対し、緒嗣は長男の藤原家緒に先立たれる等、式家はその後有力な人材を出すことができなかった。
それでも、緒嗣は冬嗣の死後、淳和・仁明天皇朝において15年以上も台閣の首班の座を維持し、従兄弟甥にあたる藤原吉野も地方官として治績を挙げ、中納言に昇進した。
しかしながら、吉野は承和の変で失脚し、その直後には緒嗣が亡くなる等の条件も重なり、以後は式家が再び政治の中枢に立つ事は無くなった。
その後は、藤原純友の乱を平定した藤原忠文や、阿衡事件に関与した藤原佐世等を輩出したものの、平安時代中期以降は儒学によって立身する家系として数家がしばらく血統を保つのみとなり、鎌倉時代まで続いた家はほとんどなかった。
但し、摂津渡辺党の一つである遠藤氏は式家の後裔を称した。
一族
藤原宇合 - 藤原不比等の三男。
式家創立者。
藤原広嗣 - 宇合の長男。
北九州で挙兵するも敗死。
藤原良継 - 宇合の次男。
内大臣。
藤原仲麻呂の乱鎮定に功あり。
藤原清成 - 宇合の三男。
藤原田麻呂 - 宇合の四男。
右大臣。
藤原綱手 - 宇合の五男。
藤原百川 - 宇合の八男。
光仁朝の権臣。
藤原蔵下麻呂- 宇合の九男。
藤原仲麻呂の乱鎮定に功あり。
藤原乙牟漏 - 良継の娘。
桓武天皇皇后。平城天皇・嵯峨天皇の母。
藤原人数 - 良継の娘。
藤原鷲取室。
藤原種継 - 清成の長男。
長岡京造宮使となるも暗殺される。
藤原正子 - 清成の娘。
桓武天皇後宮。
藤原仲成 - 種継の次男。
「薬子の変」で敗死。
藤原薬子 - 種継の娘。
「薬子の変」の中心人物。
藤原緒嗣 - 百川の長男。
左大臣。
藤原旅子 - 百川の娘。
桓武天皇夫人。
淳和天皇の母。
藤原縄主 - 蔵下麻呂の子。
薬子の夫。
藤原吉野 - 蔵下麻呂の孫。
承和の変で失脚。
藤原元利万呂 - 種継の孫。
藤原佐世 - 種継の曾孫。
儒学者。
「阿衡の紛議」で著名。
藤原忠文 - 緒嗣の曾孫。
征東大将軍。
藤原後生 - 佐世の孫。
歌人、漢詩人。
藤原仲文 - 蔵下麻呂の末裔。
歌人。
頼豪 - 清成の末裔に当たる天台宗の僧。
怨霊伝説で知られる。
藤原明衡 - 蔵下麻呂の末裔。
儒学者、漢詩人。
『本朝文粋』編者。
『明衡往来』『新猿楽記』の作者。
藤原敦基 - 明衡の子。
儒学者、漢詩人。
明暹 - 明衡の子。
笛の名手。
藤原成光 - 明衡の孫。
漢詩人。