藩鎮 (Hanchin)

藩鎮(はんちん)は中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。
節度使や観察使などを頂点とし、地方を強力に統治し、半独立の様相を呈した。
節度使そのものをさすことも多い。

歴史
安史の乱まで
唐は太宗 (唐)の時代に大幅に領土を広げた。
その領土を都護府・羈縻政策・府兵制の制度をもって維持していた。
しかし武則天期から玄宗 (唐)期にはこれら諸制度が崩壊を起こし始める。

崩壊の最も大きな原因は、均田制および府兵制を支える主戸(戸籍に登録された戸)が急速に減少したことにある。
これら主戸が税負担に耐えかねて逃亡(逃戸)した。
本籍地を離れた場所に落ち着いて耕作を始めることが多くなっていた。
本籍地を離れた者のことを客戸と言う。
府兵制は戸籍を元に兵役義務を負わせる制度であった。
そのため、客戸が増えれば徴兵数は減ることになる。

このことにより、兵士の交代要員を確保することが難しくなった。
本来ならば一年で交代の兵役が3年・4年と長引くようになっていた。
また唐の領土が拡大しすぎた。
そのため、辺境ともなるととてつもない遠い地への兵役となっていた。
これらの原因が、白居易の『新豊折臂翁』に謡われる兵役を逃れるために自らの臂を折った翁のように、兵役拒否を生むことになった。
そして更に兵士を確保することが難しくなる。

これら唐側の統治の緩みと同時に、突厥・吐蕃・契丹といった周辺諸民族の方でも勃興の動きが活発になった。
都護府は大幅な後退を強いられた。

これに対して玄宗は様々な政策を打ち出す。

監察のための地方行政単位である道 (曖昧さ回避)があった。
733年(開元二十二年)、その道をそれまでの十から十五へと増やし、道ごとに採訪処置使を置いた。
採訪処置使は領内の一つの州に治所を置き治所の州刺史を兼任する役職である。
また、州刺史以下の諸官僚たちの査定を行い、中央に報告した。
あくまで監察のための役職であり、州県の政治に直接口を出すことは禁じられていた。
758年(乾元_(唐)元年)に採訪処置使は観察処置使(略して観察使)と名が変わる。

他方、軍事面でも710年の河西節度使の設置を初めとして十の節度使が設置された。
その元で駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められたものではなく、募兵制である長征健児制によってのものであった。
この制度における兵士は辺境に屯田をしながら半永久的に定住するようになった。
国家から給料として衣類を提供されていた。

節度使は安西・北庭・平盧の万里の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。
長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であった。
節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。
しかし玄宗に重用された中国の宰相李林甫により長城内節度使にも蕃将が任命されるようになった。
政敵の現れることを恐れた李林甫は宰相になることは出来ない蕃将を節度使に就けるようにしたのである。
安禄山も李林甫を通じて玄宗の寵愛を勝ち取った。
742年に平盧節度使に、更に范陽・河東をも兼任するようになる。

安史の乱
三節度使を兼任した安禄山の総兵力は約十八万。
一方首都長安を防衛する左右羽林軍は六万足らず。
安禄山の兵力は圧倒的なものとなっていた。
安禄山は楊国忠と玄宗の寵愛を争うが、この争いは常に玄宗の傍に居る楊国忠が有利であった。
安禄山は自らの地位を失う恐怖から755年、ついに乱を起こした。
(安史の乱)

玄宗は蜀に逃亡、皇太子の亨が朔方節度使を頼り、粛宗 (唐)となる。
その後、反乱軍側の内部分裂と顔真卿・顔杲卿たちに代表される勤皇軍の奮戦・ウイグルの援兵などがあった。
唐は763年に何とか乱を収める。
しかし唐が乱の勢力を根絶したわけではなかった。
安史軍の根拠地であった河北には安史軍から投降してきた魏博(天雄軍)の田承嗣・幽州(廬龍軍)の李懐仙・恒冀(成徳軍)の李宝臣などの武将をそのまま節度使として任命していた。

更に乱の途中からそれまで置いていなかった内地にも次々に藩鎮が設置された。
藩鎮の総数は50を超え、首都長安・副都洛陽の周辺部を除いた全ての地域が藩鎮の支配下に置かれるようになるのである。
軍権と民政権とを兼ね備えた藩鎮の勢力は強大であり、藩鎮は多く自立傾向を持った。
特に旧安史軍の三将はその傾向が強く、これを河朔三鎮と呼んでいる。

これら藩鎮は軍職たる節度使(ないし団練使・防禦使・経略使)と行政職たる観察使とを兼任した。
そして事実上中央の命に拠らず藩を領有した。
その長たる藩師が死去した場合、その子や配下の有力者がこれを継承した。
そして実力をもって朝廷にこれを認めさせることがほとんどであった。

唐が滅亡した後も唐の正朔を奉じ続けた呉 (十国)に見られるように、唐全体の経済を支える江南地域は比較的朝廷に対して恭順であった。
逆に河北は旧安史軍の根拠地であり、唐に対して反抗的であった。
唐に対して反抗的で納めるべき税を全く収めず自らの収入として使っていた。
これら唐に対して反抗的な藩鎮を反側藩鎮と呼ぶ。

代宗・徳宗期
乱をようやく収めた代宗朝であった。
しかし、国力を大幅に消耗しており、藩鎮に対して強い態度を取れる状態ではなかった。

代宗を継いだ徳宗は藩鎮抑圧を目標とした。
781年に成徳の李宝臣が死去し、その子の李惟岳が世襲を求めてきた。
しかし、徳宗はこれを拒否。
これに反発した成徳・天雄・平盧・山南東道(陝西東部)の梁祟義が連合して乱を起こす。
代宗は禁軍(近衛軍)と廬龍を初めとした他藩鎮軍とを動員して討伐を加えた。
そして梁祟義を滅ぼし、李惟岳を捕らえた。

代宗の藩鎮討伐は成功するかに思えた。
が、大量の兵員動員による軍事費は財政を圧迫した。
それを補うために行った増税は民衆の強い反発を買った。
また代宗の強硬姿勢を見た他藩鎮は自らの地位を失うことを恐れた。
初めは官軍に与していた廬龍軍などが乱側に寝返ってしまった。
更に討伐に力を入れる余り、長安周辺の防備は甚だ薄くなった。

この虚を突いて783年に乱が起こり、元幽州節度使の朱沘を擁立して長安を占拠した。
狼狽した代宗は奉天(長安の西。瀋陽のことではない)に逃れる。

代宗は事態を収拾するために乱側の藩鎮の地位を保全して罪を赦した。
疲弊した藩鎮側もこれを受け入れる。
これを受け入れない廬龍・淮西そして長安を占拠した朱沘らも786年までに何とか滅ぼすことに成功する。

淮西の李希烈を殺した功績で淮西節度使となっていた陳仙奇が呉少誠によって倒された。
そして呉少誠が再び799年に乱を起こした。
一年余りの戦いの末に罪一切不問とすることでこれを収めた。
長い戦いにより多くの兵士と金銭が失われたが、結局藩鎮抑制の目標を達成したとは言いがたい。

憲宗期
徳宗の跡を継いだ順宗 (唐)は在位半年で死去し、これを憲宗 (唐)が継ぐ。

即位早々の806年、西川節度使(四川西部)の劉闢が勢力拡大を目指して東川(四川東部)を攻撃した。
これを討伐して劉闢を捕らえて斬刑に処した。
これを手始めに夏綏銀節度留後の楊恵琳、浙江西道の鎮海軍節度使の李錡を討伐する。
更に河朔三鎮をも討たんとするがこれは失敗に終わる。
しかし憲宗はこれに挫けず、淮西の呉元済を滅ぼす。

この憲宗の態度に驚愕した藩鎮側も朝廷に対して恭順な態度をとるようになった。
平盧の李師道・成徳の王承宗は自ら領地の一部を返還した。
横海軍の程権は二州全ての領地を返還して藩の歴史を自ら絶った。
しかしこの成功にも憲宗は満足しなかった。
平盧の返還の履行が遅れたことを理由にこれを攻撃して滅ぼした。

反側藩鎮として長い歴史と強大を誇った平盧が滅ぼされたことに藩鎮側は更に強い衝撃を受けた。
魏博の田弘正が領地を返還して入朝する。
憲宗は820年に宦官により殺された。
が、その後も成徳・廬龍もまた朝廷に領地を返還し、ここに河朔三鎮平定も成ったのである。

黄巣の乱まで
しかしその状態もすぐに崩れた。
三鎮の旧武将たちが再び藩の権力を掌握した。
自らを藩師として認めるように強談し、朝廷側もこれをやむなく認めた。
これに呼応するように他藩鎮でも再び自立の動きが出た。
が、朝廷はこれに対しては断固たる態度で臨み、これを許さなかった。

それまで藩師には多くが軍人出身の者が就けられていた。
これ以降、士大夫出身の者を藩師に就けるようになった。
また藩鎮の勢力を削り、それまで藩鎮の下部組織と成り果てていた州およびその長官たる刺史も中央直属としての実態を取り戻した。
唐朝廷は中央政府としての面目を取り戻した。

しかし士大夫出身の者を藩師に就けることはその下の兵士たちの反感を生むこととなった。
上級兵士たちは気に入らない藩師を実力をもって追い出し、自らが支持する人物を藩師に立ててこれを朝廷に認めさせるようになった。
このような兵士のことを驕兵と呼んだ。
驕兵は戦闘のときにも十分な恩賞が約束されねば戦おうとしなかった。
藩師がわも驕兵の意を迎えるために苦慮することになる。

また藩鎮の勢力を削った結果、藩鎮の抱える兵力が減った。
それら軍隊に吸収されていた人員が世に溢れるようになった。
元々このような募兵に応えるようなものは多くが自らの土地を持たない客戸であった。
軍隊からあぶれてしまえば職も無く、多くが匪賊となった。

このようなことに加え、朝廷は宦官によって牛耳られており、綱紀頽廃も甚だしく、社会全体に急速に不穏な空気が醸成されていった。
その結果が黄巣の乱となって顕れる。

唐滅亡から五代
唐は黄巣の乱によって致命傷を受け、形骸のみを残して、実質上は滅亡した。
朝廷の権威が衰え、天下は再び朱全忠・李克用らの藩鎮勢力が合い争う時代となる。

907年、朱全忠により禅譲劇が行われ、唐は完全滅亡、五代十国時代へと入る。

五代でも藩鎮割拠の風は変わらなかった。
敵対関係であった後梁・後唐を除いて五代の変遷は全て旧王朝の節度使職にあった者が旧王朝の皇帝を滅ぼして自ら皇帝となったものである。

北宋の太祖趙匡胤もまた後周の宋州節度使職にあった。
後周皇帝より禅譲を受けて建国した。
しかし趙匡胤は前轍を踏まないために、宴の席で酒を飲みながら部下の節度使たちに引退を勧めた。
更に新たに通判の職を置いて節度使の行政権をこれに移した。
最終的に節度使を名誉職にすることに成功した。
この後、金 (王朝)・モンゴル帝国との戦いまで、宋において軍人勢力が勃興することはなかったのである。

[English Translation]