金ヶ崎の戦い (南北朝時代) (Battle of Kanegasaki (the period of the Northern and Southern Courts))
金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、南北朝時代 (日本)の1336年(延元元年/建武 (日本)3年)から翌1337年(延元2年/建武4年)にかけて、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる南朝 (日本)方の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる北朝 (日本)方の軍勢との間で行われた戦いである。
背景
1336年(建武 (日本)3年)5月、湊川の戦いで足利尊氏率いる北朝 (日本)方に敗北した南朝 (日本)方は、比叡山に逃れた。
新田義貞は、後醍醐天皇の二人の皇子恒良親王と尊良親王とを伴って下山し、北陸へ落ち延び、氣比神宮の宮司である気比氏治に迎えられ、10月13日_(旧暦)に越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入城した。
経過
義貞の入城直後、越前国守護斯波高経が率いる北朝方は金ヶ崎城を包囲した。
高経は、守りの堅い金ヶ崎城を攻めあぐね、兵糧攻めを行う。
翌1337年(延元2年/建武4年)、尊氏は高師泰ら援軍を派遣し、厳しく攻め立てる。
義貞は援軍を求めるため、二人の皇子と長男新田義顕らを残し、兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出する。
が、北朝方に阻まれ再び金ヶ崎城へ戻ることはできなかった。
3月3日_(旧暦)、北朝方が金ヶ崎城に攻め込む。
兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、3月6日_(旧暦)落城する。
尊良親王・新田義顕は自害し、恒良親王は北朝方に捕縛された。