金本位制 (Gold standard system)
金本位制(きんほんいせい、gold standard <英>)とは、一国の貨幣の価値を金に裏付けられた形で表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。
この場合、その国の通貨は一定量の金の量で表すことができ、これを法定金平価という。
概要
狭義では、その国の貨幣制度の根幹を成す基準を金と定め、その基礎となる貨幣、すなわち本位貨幣を金貨とし、これに自由鋳造、自由融解を認め、無制限通用力を与えた制度である。
これは特に金貨本位制という。
つまり、金そのものを貨幣として実際に流通させる事である。
実際には、流通に足りる金貨が常備できない、高額になりがちな金貨は持ち運びが不便などの理由により、金貨を流通させられない場合が多い。
そこで、中央銀行が金地金との交換を保証された兌換紙幣(だかん-)とその補助貨幣を流通させる事により、貨幣価値を金に裏付けさせる事が行われた。
これを金地金本位制(きんじがね-)という。
一般には、金貨本位制と金地金本位制を含めて金本位制という。
さらに、自国で金本位制を実施出来ない場合でも、これを行っている他国の通貨と自国通貨との一定の交換性が保証されている場合には、為替を通じて間接的に金との兌換が行われていると考えて金為替本位制(きんかわせ-)と呼ぶ。
広義では、この金為替本位制も金本位制に含める。
均衡のプロセス
金本位制には、国際収支を均衡させる効果があると考えられている。
複数の国が存在していて、それらの国が金本位制を採用している場合、流通している通貨が異なっても事実上「金」が世界共通の通貨であることになる。
例えば、経常収支の均衡しているある国がある。
設備投資が活発になり好況になったとする。
国内の貯蓄がそれまでと変わらなかった場合、経常収支は赤字となる。
経常収支の赤字は輸入による自国通貨(金)の流出が、輸出による自国通貨(金)の流入を上回ることである。
このことは国内の通貨残高減少を意味する。
通貨減少により国内の金利は上昇し設備投資が減少する。
景気は経常収支が均衡するまで沈静化し、やがてバランスをとる。
このプロセスにおいて、金利上昇時に国外からの資本流入が起きると、設備投資は減少せず、経常収支も均衡しない。
経常収支と資本収支の合算が均衡している限り国内の金は増減せず国際収支は均衡する。
逆のプロセスとして不景気に陥った際も金の流入がプラスになれば景気が回復する。
不況レジームとしての国際金本位制(金の足かせ)
金本位制というのは、固定相場制の一種としてとらえることができる。
各国がいったん自国通貨と金との交換比率を決定すると金平価も自動的に決定され、各国通貨当局は金平価を維持させるために、国内の金融政策が追随する形をとる。
金本位制はほかのドルペッグ制などとは違った固定相場制としての特質を持っている。
それは金流出国と金流入国との間の金融政策の非対称性である。
例えば、自国において金流出が起こったとする、その国では民間の兌換請求によって金を買い戻していることになるから、必然的に自国通貨のマネーサプライの減少をもたらし、均衡に至る。
しかし、金流入国においては金流入によって民間より金を買い入れて、マネーサプライの拡大をすることになる。
しかし、当該国がマネーサプライの拡大を嫌った場合、他の資産を民間に売却することによって自国通貨供給の拡大を阻止するという操作が可能であり、このような金不胎化政策はかならず他の国に金融引き締めを強いることになる。
金本位制というのは本質的に強い引き締め圧力を持ち、拘束性を持つ政策レジームである。
歴史
金本位制の理念は古くからあったと思われるが、金貨は貨幣として実際に流通させるには希少価値が高過ぎたため、蓄財用として退蔵されるか、せいぜい高額決済に用いられるかであった。
金本位制が法的に初めて実施されたのは、1816年、イギリスの貨幣法(55 GeorgeIII.c.68)でソブリン金貨(発行は1817年)と呼ばれる金貨に自由鋳造、自由融解を認め、唯一の無制限法貨としてこれを1ポンドに流通させることになってからである。
その後、ヨーロッパ各国が次々と追随し、19世紀末には、金本位制は国際的に確立した。
日本では1871年(明治4年)に「新貨条例」を定めて、新貨幣単位円 (通貨)とともに確立されたが、まだ経済基盤が弱かった日本からは正貨である金貨の流出が続いた。
金銀複本位制を経て暫時銀本位制に変更されて日清戦争後に金本位制に復帰した。
しかし、第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。
これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。
また世界最大の為替決済市場であったロンドン(シティ)が戦局の進展により活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。
例えば日本は1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあった。
また外貨決済の8~9割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。
その後1919年にアメリカ合衆国が復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年の世界恐慌により再び機能しなくなり、1937年6月のフランスを最後にすべての国が金本位制を離脱した。
日本では、関東大震災などの影響で金本位制復帰の時期を逸し、1930年(昭和5年)に濱口雄幸内閣が「金解禁(金輸出解禁)」を打ち出したが、翌年犬養毅内閣が金輸出を再禁止した。
第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制を中心とした国際通貨基金体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)が創設された。
他国経済が疲弊する中、アメリカは世界一の金保有量を誇っていた。
このため各国はアメリカの通貨アメリカ合衆国ドルとの固定為替相場制を介し、間接的に金と結びつく形での金本位制となったのである。
しかし、1971年8月15日のいわゆるニクソン・ショック以降は金と米ドルの兌換が停止され、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行したため、金本位制は完全に終焉を迎えた。
日本の本位金貨(旧1,2,5,10,20円、新5,10,20円)も1987年(昭和62年)5月31日限りで流通停止になり、名実ともに管理通貨制度の世の中になった。