金鵄勲章 (Kinshi kunsho (The Order of the Golden Kite))
金鵄勲章(きんしくんしょう)は、日本の勲章の一つ。
授与対象が大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍の軍人軍属に限られた。
金鵄章とも。
「金鵄」という名前の由来は、神武天皇の神武東征の際に神武天皇の弓(武器)の弭にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、ナガスネヒコの軍を迷眩せしめたという日本神話の伝説に基づく。
概要
金鵄勲章は1890年2月11日(紀元節)に制定された。
金鵄勲章は7等級に分けられ、「功一級」以下「功七級」までの功級に叙せられた上で勲章を受ける。
位階や旭日章・瑞宝章などのその他の勲章は仕官して公務員(当時は官吏)となれば勤続年数などの一定の条件で大抵誰でも受勲することができ、また官吏では無い兵 (日本軍)や民間人でも対象となったが、金鵄勲章は軍人軍属のみでかつ相応の戦功がなくては授与されず、大将や皇族軍人といえども相応の武功がなければ授与されなかった。
また、受章者には功一級で900円 (通貨)、功七級で65円の年金が支給された。
昭和初期当時の二等兵の月給は8円80銭であり、かなりの高額であった。
この年金は終身年金であったが、戦争の拡大に次ぐ拡大で受章者が急増し国庫の大きな負担になった。
そのため1940年に一時金制に変更になり、国債の形で支給された。
しかし、敗戦によりその国債は1円の価値もないものになった。
また、生存者への授与は昭和15年を最後に戦争激化のため一時停止され、以後は戦功を挙げた戦死に与えられるのみとなった。
このため、前線部隊では勲功抜群なものに対しては「金鵄勲章の確約」として軍刀や感状、記念品などを与えたり、陸軍では武功徽章を制定するなどして対処していた。
太平洋戦争の敗戦により、連合国軍最高司令官総司令部の指示により昭和22年5月3日公示の「昭和22年政令第四号」に依って廃止された。
戦前の日本においては階級がものをいう社会であったため、勲章の等級を並べて表示する事が多い。
金鵄勲章も例に漏れず表示され、表示順は、1、職 2、階級 3、位階 4、勲等 5、功級 6、爵位 7、学位そして氏名となる。
(例)内閣総理大臣海軍大将従一位大勲位功一級伯爵山本権兵衛
功級
金鵄勲章に付随して、叙せられた軍人の功績を示す等級。
位階勲等といった栄典と並び天皇より与えられた栄誉の一つ。
各級は正式には功一級金鵄勲章のように等級+金鵄勲章の形で呼ばれる。
功二級金鵄勲章以下は副章が存在しない。
功一級天皇直隷部隊の将官(主に大・中将)たる司令官に対して特別詮議の上授与
大綬を左肩から右脇に垂れ、副章を左肋に佩用する。
功二級功労ある将官、佐官最高位の功級
正章(功一級金鵄勲章の副章と同じ)を右肋に佩用する。
功三級将官の初叙。
功労ある佐官、尉官の最高位の功級
中綬を首に佩用する。
功四級佐官の初叙せられる功級。
功労ある尉官、准士官、下士官の最高位の功級
小綬を左胸に佩用する。
功五級尉官の初叙せられる功級。
准士官、下士官の中で功労を重ねた者の功級。
また兵の最高位の功級
小綬を左胸に佩用する。
功六級准士官、下士官の初叙せられる功級。
また功労ある兵の功級
小綬を左胸に佩用する。
功七級兵の初叙せられる功級
小綬を左胸に佩用する。
金鵄勲章受章者数(概数)
日清戦争:約2000人
日露戦争:約10万9600人
第1次大戦:約3000人
満州事変:約9000人
支那事変(日中戦争):約19万人
大東亜戦争(太平洋戦争):約62万人
後年の金鵄勲章復権運動
1963年に生存者叙勲制度が再開され、菊花章・旭日章・瑞宝章・宝冠章が復活したが、金鵄勲章は廃止されたままで公の場での佩用も禁止された。
その為金鵄勲章叙勲者達は名誉と年金の復活を求めて「金鵄連盟」をつくり、運動を始めた。
1985年には「旧勲章名誉回復に関する懇談会」という国会議員の集まりがつくられ、当時の中曽根康弘首相に同様の要請をしている。
叙勲者の高齢化等により活動は下火になったが、佩用は翌1986年に認められた。