銀座 (歴史) (Ginza (History))
銀座(ぎんざ)とは、中近世の日本の政権において貨幣の鋳造および銀地金の買売を担った場所に与えられた呼称である。
概要
銀座は豊臣秀吉が大坂に常是座(じょうぜざ)を設けたことに始まる。
銀貨の統一に向けて堺市、京都の銀吹屋20人を集めた。
その他、戦国時代 (日本)より現れた両替商兼銀細工師である銀屋(ぎんや)が各地で極印銀を鋳造し、銀座はこうした業者から成立した。
例えば加賀藩では銀細工師集団である金沢市銀座があり江戸時代の初期にかけて領国貨幣である極印銀を鋳造した。
このような各地銀座が江戸時代まで続いた理由は、銀の海外流出などにより慶長丁銀が地方まで充分に行き渡らなかったことに起因する。
銀座といえば主に徳川家康が開いた江戸幕府の銀座が知られた。
これは徳川家により特許された御用達町人による組織であった。
当時の主な通貨のうちの銀貨の鋳造が行われたこと、この場所以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたこと、などにより「銀・座」の名が付けられたと思われる。
銀座は極印打および包封を行う常是役所(じょうぜやくしょ)、および座人が会同する銀座役所(ぎんざやくしょ)よりなる。
常是役所は京都は湯浅作兵衛の長男である大黒作右衛門、江戸は次男である大黒長左衛門が銀改役となり以後世襲制となった。
慶應2年(1866年)、幕府が改税約書によりイギリス、フランス、アメリカ合衆国、オランダ四ヵ国と交わした自由造幣局設立の確約を受け、慶應4年(1868年)4月17日、明治維新は金座および銀座を接収した。
同月21日、太政官に設立された貨幣司(かへいし)は旧金座、銀座で二分金および一分銀などを鋳造し、明治2年(1869年)2月5日に廃止された。
伏見・銀座町
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、日本国内の覇権を意識し、1601年(慶長6年)、京都伏見区の伏見城下に貨幣鋳造所を設立した。
堺の両替商、湯浅作兵衛に命じて取り仕切らせ、頭役には、末吉氏の末吉利方(平野(末吉)勘兵衛利方)と子の末吉吉康(吉安)(末吉孫左衛門吉康)がなった。
彼らは摂津国住吉郡平野郷(大阪市平野区)の豪商で、同族の平野藤次郎、平野九右衛門も頭役となった。
極印方の湯浅作兵衛は徳川家より大黒常是(だいこくじょうぜ)という姓名を与えられた。
これ以降大黒常是家は鋳造された銀貨に「常是」の略号を刻印して銀貨の極印・包装を担当した。
このため、銀座で出された銀貨の包みを常是包と呼んだ。
徳川幕府の中枢が移るに従い駿府にも銀座が設けられ、さらに慶長13年(1608年)に伏見銀座は京都両替町、続いて慶長17年(1612年)に駿河銀座は江戸新両替町に移された。
銀座の貨幣鋳造機能は江戸に全て移された。
駿府・銀座
慶長11年(1606年)徳川家康が隠居の地、駿府城築城と同時進行に設立したとされる銀座である。
慶長16年(1611年)より京都銀座より座人および常是役人が勤番交代で詰めたという。
主に駿府城の蓄財としての分銅銀、丁銀を鋳造することが目的であったとされる。
慶長17年(1612年)に駿府銀座の機能は江戸へ移転したが、この地は現在静岡市葵区両替町として名残を有する。
京都・銀座
慶長13年(1608年)、伏見銀座より移転し、京都の室町通と烏丸通の中間、二条通から三条通までの四町(二条下ル、押小路通下ル、御池通下ル、姉小路通下ル)に亘って拝領して設立され、この地を両替町通と称するようになった。
この各地銀座所在地の両替町という名称は諸国の銀山より産出される灰吹銀を、銀座が公鋳の丁銀を以って買い入れることを南鐐替(なんりょうがえ)と称したことによる。
京都銀座では常是屋敷は両替町御池の北東側角にあり、銀座役所はその北側に隣接していた。
江戸銀座の町割りもこれに準ずるものであった。
銀座移転前のこの地は染物屋が多く集居していたが、西洞院通蛸薬師通付近に替地を与えられ立ち退いた。
銀遣いの上方にあることから丁銀鋳造の中心地となり、駿河、後に江戸とともに貨幣鋳造を担い、これは寛政12年(1800年)の銀座改革まで続いた。
大坂・銀座
慶長13年(1608年)(慶長11年との説も有り確定的でない)大坂高麗橋東一丁目両替町に設立された銀座は、主に生野銀山および石見銀山からの灰吹銀および大坂銅吹所における粗銅からの絞銀を集積して京都の銀座に送る役割を果たした。
銀遣いである商業の中心地にあって京都銀座の出見世(でみせ)としての機能を果たした。
江戸・銀座
銀座歴史を参照。
慶長17年(1612年)に駿府銀座より移転し、通町京橋 (東京都中央区)より南へ四町までを拝領して、既に江戸金座が本両替町と呼ばれていたことから、この地を新両替町と称した。
京都の銀座より座人が一年毎に勤番交代を行った。
現在この地は銀座二丁目にあたり、「銀座」は繁華街の代名詞となった。
明和年間以前は銀座は専ら丁銀および豆板銀すなわち秤量銀貨を鋳造した。
だが、明和2年(1765年)9月の五匁銀発行を皮切りに明和9年(1772年)9月の南鐐二朱銀発行以降は計数銀貨の鋳造が主流となった。
加えて明和5年(1768年)から寛永通寳真鍮當四文 (通貨単位)銭の鋳造を請負い、これ以降、文久永宝に至るまで四文銭の鋳造は銀座の指導監督のもと行われることとなった。
寛政12年(1800年)6月、江戸銀座において不正行為が発覚したことを機に、銀改役の大黒長左衛門八代目常房は家職放免の上、永蟄居を命じられた。
その後京都銀座から大黒作右衛門九代目常明が江戸へ招致され、京都および江戸両座の銀改役を兼任することとなった。
この銀座粛正の後、座人は15人に縮小され、同年11月に日本橋蛎殻町(現在の日本橋人形町)に移転される事が申し渡され、南鐐二朱判鋳造が再開された。
移転は翌享和元年(1801年)7月に完了した。
それ以降、貨幣鋳造は江戸銀座に集約され、京都、大坂の銀座は貨幣吹替えの際の旧銀貨の回収、引換を行なった。
銀地金の買上および銀貨の包封などの役割りにとどまった。
長崎・銀座
慶長19年(1614年)(設立時期は諸説あり確定的でない)に長崎市芊(すすき)原、後に大村町、島原町北入込に設立された銀座は、主に銀の海外への不正持ち出しの監視、良質灰吹銀輸出の防止の役割を果たし、京の銀座より銀見役および銀座手代が一年毎に交代派遣された。
銀山から山出しされた灰吹銀は原則として銀座が買上、丁銀に鋳造することになっていたが、灰吹銀を銀座に売り渡さず直接長崎に送り利益を得る者が続出した。
そのため幕府は慶長14年(1609年)に灰吹銀輸出を禁止、慶長銀で決済するよう定め、監視を強めた。
しかし銅を20%含有する、より品位の低い慶長銀により決済しなければならないというものは、外国人にとって甚だ迷惑なものであり、上銀に精錬し直さなければならなかった。
良質灰吹銀に偽造の慶長銀の極印を打ち「似せ大黒」を作成し、輸出するといったことも行われ、
相当量の灰吹銀が監視の目を逃れて不正に持ち出され流出した。
寛政12年の銀座改革に伴い廃止された。
丁銀の鋳造法
銀貨鋳造の吹元銀には大別して二通りの形式があった。
一つは諸国の私領銀山より産出される灰吹銀および世上流通の灰吹銀を買い上げ、丁銀に吹き立て利益の一部を運上する、買灰吹銀(かいはいふきぎん)(寄銀)による自家営業形式。
もう一つは石見、生野、佐渡金山などの天領にある銀山から上納される、公儀灰吹銀(こうぎはいふきぎん)(御銀)を預り丁銀に吹き立てた。
その鋳造高に対する3%を分一銀(ぶいちぎん)として銀座が受け取り、残りを上納する御用達形式があった。
なお元禄以降の貨幣吹替えの際、回収された旧貨幣を吹元とする場合の取り扱いは御用達形式に準じるものであった。
釻場(ませば)
吹元銀として、幕府御金蔵より渡す灰吹銀、回収された古銀、銀座が買い上げた灰吹銀などがある。
釻とは灰吹銀の意味である。
吹元銀は釻場(ませば)で質量を改め、銀見役により品位が改められた。
五分入れ(銀95%)の品位以上のものはそのまま用いた。
それ以下のものは精錬し直して、最上位の一割入れとし、規定の割合に銅を組み合わせて秤量し取組みが行われ箱に入れ封印し、銀見役から常是手代へ引き継ぐ
吹所(ふきしょ)
吹立は常是吹所で行われた。
取り組みの行われた地金を12貫を一吹として留鉢(坩堝)にいれ吹鎔かし常是手代湯入役が鉄柄杓で汲み上げ熱湯を張った丁銀および豆板銀の型に流し込んだ。
形の良否により選別され、合格したものは数量および目方が改められた後、常是極印役に引き継ぐ。
常是極印役により極印打ちが行われ、さらに焼鈍しが行われた後、梅酢に漬けられ、表面の銅を溶解して銀色が整えられた。
丁銀は200枚ずつ、豆板銀は500匁ずつ包み、座人封で銀座に廻した。
糺吹所(ただしふきしょ)
鋳造された丁銀の銀品位が正しいか否かを検査するため、常是手代立会いの下、鉛を加えて吹き戻され灰吹法により含有銀量が改められた。
これを糺吹(ただしふき)と呼ぶ。
丁銀100匁当りの含有上銀の許容誤差は慶長銀および享保丁銀0.3匁、元禄丁銀0.8匁、宝永丁銀1.11匁、永字銀1.33匁、三ツ宝銀1.51匁、四ツ宝銀1.7匁、および元文丁銀1.5匁であった。
寛政12年(1800年)の銀座改革により勘定奉行による統制が強化され「御勘定附切り」となり、それ以降、文政丁銀から糺吹は必要なしと判断され廃止された。
仕立場(したてば)
仕上げは丁銀を加熱した梅酢に漬け、取り出した後、磨き水洗いした。
仕上げた丁銀および豆板銀は500匁毎にまとめられ、常是が包封した。