養和の飢饉 (Famine of Yowa)
養和の飢饉(ようわのききん)とは、1181年に発生した大飢饉。
源氏・平氏による争乱期(治承・寿永の乱)の最中に発生した飢饉であり、源平盛衰記や方丈記など当時の状況を詳細に記す史料も多い。
概要
前年の1180年が極端に降水量が少ない年であり、干魃により農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。
大量の餓死者は発生もちろんのこと、土地を捨てて逃亡する農民が多数発生。
地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した。
京都市中
方丈記では、京都市中の死者を4万2300人とし、市中に遺体があふれていたことが記されている。
あまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝えられている。
こうした市中の混乱が、源義仲の活動(1180年挙兵、1183年上洛)を容易にする遠因となっていたことも考えられている。