鹿ケ谷の陰謀 (Shishigatani-no-Inbo (Shishigatani Conspiracy))

鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件である。
京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(藤原通憲の子)の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。

経過

建春門院の死

安元2年(1176年)後白河法皇は50歳となり、正月から祝いの行事が続いた。
平氏一門も法住寺殿の宴に出席して、法皇との親密ぶりを誇示した。
しかし6月に建春門院の病状が悪化して、7月8日に死去した。
相前後して、高松院(しゅ子内親王)・六条天皇・九条院(藤原呈子)が亡くなり、政界はにわかに動揺する。

まず母の死により、皇子のいない高倉天皇の立場が不安定となった。
成人して政務に関与するようになった高倉天皇と、院政継続を望む後白河の間には対立の兆しがあったが、12月5日の除目において後白河近臣の藤原定能・藤原光能が、平知盛らを超えて蔵人頭に任じられた。
後白河院政派の躍進に対する巻き返しとして、翌安元3年(1177年)正月の除目では平重盛が近衛府、平宗盛が右大将となった。
建春門院という仲介者を失ったことで、人事を巡り高倉を擁する平氏と後白河院を擁する院近臣勢力は相争うことになる。
それでも3月14日に、後白河院が千僧供養のため福原京を訪れて平氏に好意的態度を示し、亀裂は修復されたかに見えた。

白山事件

ところが、後白河が帰京した3月22日、山門(比叡山延暦寺)の大衆 (仏教)が加賀国守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした(白山事件)。
発端は西光の子・師高が加賀守となり、目代・師経が白山の末寺・宇河寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門に訴えたことだった。
国衙の目代と現地の寺社が、寺領荘園の所務を巡り紛争を起こすことは各地で頻発していたが、この事件では白山が山門の末寺で、国司が院近臣・西光の子であることから、中央に波及して山門と院勢力の全面衝突に発展した。

後白河は目代・師経を備後国に流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、大衆は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かう。
後白河は強硬策をとり官兵を派遣するが、警備にあたった重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たったことから事態はさらに悪化する。
4月20日、師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。

山門攻撃準備

直後の4月28日、「太郎焼亡」と称される大火が発生、大極殿および関白松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失して、人々に衝撃を与えた。
このような中で、後白河は突如として先の事件を蒸し返し、天台座主・明雲を解任、所領を没官すると5月22日に伊豆国へ配流した。
西光が師高の流罪を嘆き、強訴の張本人が明雲であるとして処罰を訴えたことが原因であったという。
座主配流に反発する大衆が明雲の身柄を奪回したため、後白河は平清盛を呼び出し山門攻撃を命じた。
清盛は攻撃に消極的だったが後白河に押し切られる形となり、近江国・美濃国・越前国の武士も動員されて攻撃開始は目前に迫った。

陰謀発覚

出撃直前の6月1日、清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告した。
『愚管抄』によれば、後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという。
また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子(へいじ)が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。

清盛は直ちに西光を呼び出して拷問にかけ、全てを自供させると首を刎ねた。
同じく呼び出された成親も拘束された。
成親の妹を妻にしていた重盛は、命だけは助かるようにすると成親を励ましたという(『愚管抄』)。
西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。
4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。
9日、尾張に流されていた師高が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺、成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず殺害されてしまった。

影響

謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。
清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。
後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。

重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄が配流されて助命を求めたにも関わらず殺害されたことで面目を失い、6月5日に左大将を辞任した。
この結果、宗盛が清盛の後継者の地位を確立した。
清盛は山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、清盛と後白河の関係は取り返しのつかないものとなり治承三年の政変(1179年)へとつながっていく。

史料

『愚管抄』

[English Translation]