七卿落ち (Shichikyo-ochi (Seven nobles' rustication))
七卿落ち(しちきょうおち)とは、江戸時代の幕末期、1863年(文久3年)八月十八日の政変において、7人の公卿が京都より追放された事件。
概要
1863年(文久3年)に起こったクーデターである八月十八日の政変において、薩摩藩・会津藩などの公武合体派に敗れて失脚した尊皇攘夷派の公卿の三条実美(清華家)・三条西季知(大臣家)および四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら7人が京都から追放され、長州藩へと逃れた。
公家7名は長州藩兵に付き添われて洛東妙法院に集結してから、兵庫を経て船で、長州藩の三田尻港(現・山口県防府市)を目指した。
3隻で出発したが、途中嵐のため、2隻は徳山藩の徳山港(現・山口県周南市)に上陸し、ここから陸路で三田尻に向かった。
徳山港には、1913年(大正2年)に建てられた「五卿登陸處」碑(周南市徳山・晴海埠頭の親水公園)がある。
その後、錦小路頼徳は元治元年(1864年)に病没、澤宣嘉は生野の変で挙兵したのち脱出して長州に潜伏、残る五卿は長州征討第一次の後に筑前国太宰府天満宮に移された。
慶応3年(1867年)12月、王政復古 (日本)の前夜、朝議にて赦免された。
以後、澤宣嘉は外務卿、三条実美は太政大臣や内大臣、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長になるなど明治政府の要職に就いた。
大崎下島の御手洗地区に五卿が立ち寄ったといわれる屋敷が七卿落遺跡として残っている。