万役山事件 (Mannyaku-yama incident)
万役山事件 (まんにゃくやまじけん)は、正徳 (日本)5年(1715年)、周防国の久米村万役山の松の木一本を巡る争いから、領界の争論を生じ、徳山藩改易にまで発展した事件。
万役山は山口県にある山で、万若山とも書く。
宗家の萩藩領の西久米村と徳山藩との境界に存在し、松の木を巡る争いが起こった地点を萩藩領では箸ノ尾山と呼び、徳山藩領では尾崎山と呼んでいた。
しかしながら、徳山藩の旧記『徳山御還附一件』によると問題の場所はわずか10間足らずの出入りに過ぎなかったようである。
発端
正徳5年6月6日 (旧暦)(1715年)、西久米村の百姓・喜兵衛、その長男・惣右衛門、次男・三之允が田の草をとっての帰りがけに、かつて植えておいた小松1本を切り取り、田の畦修理のために持ち帰ろうとした。
それを、徳山藩の山回り足軽である伊沢里右衛門と久助が見つけて咎めたのが事件の発端である。
そして咎めた後に争いとなり、里右衛門は喜兵衛の首を刎ねてしまった。
萩藩の言い分
後に萩藩主・毛利吉元が江戸幕府へ提出した願書によると、下記のように里右衛門が先に手を出したとある。
喜兵衛らが自ら植えた松を切り取ったところに里右衛門と久助が通りかかり、咎めたところ、喜兵衛は自分が植えた松であるといい、里右衛門に従わなかった。
すると、里右衛門は持っていた棒で惣右衛門を2度打擲し、3度目を打擲しようとしたところ、棒を取り落としたため、脇差に手をかけた。
惣右衛門はその隙に棒を取り逃げた。
里右衛門は追いかけたが道を踏み誤り倒れた隙に惣右衛門は逃げ延びた。
そこで、里右衛門は戻り、三之允に3箇所傷を負わせたところ、喜兵衛が助けようとし、里右衛門は喜兵衛の首を刎ねた、
徳山藩の言い分
『徳山御還附一件』によれば、下記のように里右衛門が先に手を出したことになる。
初め喜兵衛らが松を切ったところに里右衛門が行き掛かり、切った松と証拠の鎌を置いていけと命じた。
しかし、喜兵衛が無体の悪口雑言に及んだので、鎌を取り上げた。
すると、惣右衛門が突然里右衛門に後ろから組み付き、髪を取って引き倒そうとしたので、里右衛門は惣右衛門を前に引き寄せ、脇差を抜いて少々傷をつけた。
これに驚いた惣右衛門が倒れた隙に、三之允は里右衛門の抜き身を取って逃げ帰った。
しかしながら、喜兵衛は惣右衛門を救いたい一念から里右衛門に打ってかかったため、里右衛門は喜兵衛の首を打ち落とした。
萩藩と徳山藩の争い
萩藩の代官・井上宇兵衛は事件の顛末を萩藩に報告し、徳山藩に詰問状を発した。
これに対し、これに応対した徳山藩の代官・米田儀兵衛は問題の場所が徳山藩領に相違ないと主張して譲らなかった。
この時萩藩で政務を担当していた浦元敏と国司広通は事を穏便に解決しようと、徳山藩の重臣と縁故の深い奈古屋与左衛門(徳山藩家老・奈古屋玄蕃と徳山藩士・奈古屋里人の叔父)を特使として徳山藩に派遣したが、別段謝罪の意思を表明しなかった。
そこで、浦元敏は改めて徳山藩の家老に交渉し、解決策として、明らかに下手人と見られる里右衛門の死罪を要求したが、これもまた不調に終わる。
そのうちに、西久米村の百姓らは、年来自分たちの山だと信じてきた山を徳山領と主張され、非を喜兵衛らのみに帰して、里右衛門に咎めがないのを不満とし、一揆にも及びかねない形勢となった。
そこで、吉元は宍戸就延を特使として派遣し、直接元次に反省を促した。
しかし元次は依然として謝罪しようとはしなかった。
これに対し徳山藩士・奈古屋里人は強く元次を諫めたが、元次は聞き入れず、徳山城下からの追放を命じた。
幕府の裁定
事件発生から半年ほど経過しても、なお解決の糸口さえ見つからないのを憂慮した清末藩主・毛利元平は吉元と共に江戸に参勤していた。
そこへ、正徳6年春(1716年)に、元次もまた参勤のために江戸に上ってきた。
そこで、元平はこの機を逃さず、萩藩の家老・毛利広政と共に元次を尋ねて最後の説得を試みたが、これも失敗に終わった。
そこで、正徳6年4月11日 (旧暦)(1716年)に、吉元は幕府へ報告し、元次に隠居を命じ、15歳になる元次の嫡子・百次郎(後の毛利元堯)に家督相続を許されるように願い出た。
老中の阿部正喬、井上正岑、久世重之、戸田忠真は直ちに審議し、吉元の請願通り元次の隠居では済ませず、徳山藩の改易、元次の新庄藩お預け、嫡子・百次郎、次男・三次郎(後の毛利広豊)及び幸姫(毛利元連室)らは萩藩にお預けすることを決定した。
徳山藩改易
徳山藩が改易されると、徳山の家中は事の意外な発展に驚き、硬軟両派に分かれて論争した。
しかしながら、方針を隠忍自重し、徳山藩再興を目指すことを決定した。
そこで、これ以上の摩擦を防ぐために、萩藩の要求に応じ、里右衛門を引き渡し、屋敷の接収にも応じた。
徳山の家中は9月30日 (旧暦)を限って立ち退きを命じられ、萩その他の縁故者を頼ってそれぞれ移転した。
この時吉元は徳山家中の身分に応じて引越料を支給し、立ち退きの終了した旧徳山藩領を一つの行政区画とした。
徳山藩再興運動
徳山藩再興を目指す奈古屋里人らは初め村々から百姓を集め、萩藩に直訴しようとした。
しかしながら、途中山口市で萩藩の役人に押し止められ、失敗した。
そこで、今度は直接幕府に訴えることにした里人は京都を拠点として、江戸・大坂・徳山・萩市など各地に散らばった仲間と連絡を取り合い、情報を集めながら時期を待った。
享保4年1月 (旧暦)(1719年)、里人は「周防徳山領百姓中」と署名し、嘆願書を老中・水野忠之、大目付・横田重松、目付・千葉七郎右衛門の3人宛てに投書した。
この嘆願書は幕閣の同情を勝ち取り、改易は処置が重過ぎるという意見が出て、徳山藩再興が決定した。
吉元から内願した形式をとった後、5月28日 (旧暦)に元次のお預けを免じ、先年の吉元の願い通りに、元次の隠退と百次郎の家督相続を許可した。
ここに徳山藩は再興された。