三職推任問題 (Sanshoku suinin mondai (the question of the three alternative positions)
三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)とは、天正10年(1582年)4月25日 (旧暦)、5月4日 (旧暦)両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記(天正十年夏記)』の記事の解釈を巡る日本の歴史上の論争である。
背景
織田信長は天正6年(1578年)4月に、右大臣兼右近衛大将を辞官して後、何らの官職に就いていなかった。
天正10年5月に至り、朝廷から武田征伐の戦勝祝賀として信長に、太政大臣、関白、征夷大将軍の三職いずれかに推任しようとする動きがあった。
本論争は直接的には、この動きを信長の強制と見るか否かを争うものであるが、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含むものである。
本文
廿五日(中略)
村井所へ参候。
安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。
その由申入候。
四日(中略)
のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし申候。
関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候へハ、又御らんもつて御書あかる也。
解釈
従来伝承されていた『晴豊公記』は、天正10年4月分から同年9月分が欠けていたが、1968年(昭和43年)岩沢愿彦が内閣文庫(現国立公文書館)にあった『天正十年夏記』が『晴豊公記』断簡であることを発表した。
岩沢の解釈では、「太政大臣、関白、将軍の三職いずれかに推任するのがよい」と言った主体を天皇の意向を受けた晴豊としており、以後もこの解釈を受け、信長はこの天皇の意向を突っぱねたとする説が通説化していた。
ところが、歴史研究家の立花京子が晴豊の日記全体の「被申候」使用例を分析した結果、村井貞勝の言葉と解釈し、独断専行を嫌う信長に無断で貞勝が発言するはずがないとし、信長の将軍任官の意向を踏まえたものであったと主張したことにより、歴史学者の間で賛否両論の論争となった。
また立花説では、5月4日付けの記事にある「将軍になるべき」との晴豊の言葉を朝廷公式の意向であったとし、「御らん」(森成利)を派遣した信長の意図を真意を隠しわざと当惑して見せたものとする。
立花はこの解釈に基づき、三職推任を信長の勝利と位置づけ、朝廷が拒めなかったものとした。
今谷明は立花説の解釈に立脚しながら、信長は朝廷の権威に屈服し中世的権力関係を指向せざるをえなかったとしている。
また、橋本政宣は、信長が就任を受けたのは征夷大将軍ではなく、太政大臣であったとする見解を出している。
これは、2月に太政大臣に就任したばかりである近衛前久が5月に突如辞任していること、本能寺の変後の7月17日_(旧暦)に羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙において、秀吉が信長のことを「大相国」と呼んでいるが、信長に対する太政大臣贈官が宮中で論じられたのは同年10月の事であること、加えてその結果出された贈官の宣命には「重而太政大臣」の語句があり、これを太政大臣の辞令が出されたのが2度目であると解釈して、1度目の辞令を三職推任問題の時に既に太政大臣就任の内諾を信長から得たことにより、非公式な内定が出されていたと解している。
しかしながら堀新 (歴史学者)から出された反論では、同日記の5月4日 (旧暦)付けの記事や、『誠仁親王消息』などの資料から、三職いずれかなどという曖昧な推任をしたのは誰も信長の真意を理解していなかったための行動であり、貞勝と信長との間にこの件に関する打ち合わせをした形跡がないことなどから、三職推任は信長の意向とは言えず、5月4日の晴豊の言葉も晴豊個人の見解であるとした。
堀説では、信長は天下統一まで任官できないとして右大臣兼右近衛大将を辞官しており統一前に任官する理由が立たないことを指摘し、信長には任官の意思はなく、律令体制に留まらず中華皇帝を指向していたと推察できるともしている。
小和田哲男は堀と同様の解釈をとりながら、5月4日以降に将軍任官を考えたのではないかとの見解を示している。
この論争は2007年現在も継続しており、いまだ定説と見なされる見解は確定していない。