三都 (Santo)
三都(さんと)
江戸時代の日本三大都市。
すなわち、京都・大坂・江戸のこと。
明治以後の三府と重なる。
本項にて解説する。
現代の三大都市圏の中心都市。
すなわち、特別区・大阪市・名古屋市のこと。
京阪神の中心都市である3市。
すなわち、京都市・大阪市・神戸市のこと。
三都物語、三都ネットなど。
三都(さんと)とは、江戸時代に江戸幕府直轄都市であった都市のうち、その規模が極めて大きかった京・大坂・江戸を指す。
三都の人口
平安遷都以来室町時代まで京都は時期によって変動はあるものの、多い時で約20万人、少ない時で約4万人の間で推移したと推定されている。
安土桃山時代に入り大坂が発達し、京都も長らく分離していた上京と下京の宅地が繋がって30万人規模に成長したと考えられる。
江戸時代に入ってすぐの1609年に日本へ漂流したロドリゴ・デ・ビベロは、京都の人口を30~40万人、大坂の人口を20万人、江戸の人口を15万人と伝えている。
江戸時代の三都の人口については時期によって変動はあるものの、多い時で江戸は100万人以上、京都、大坂は40万人の人口を有していたと推測されている。
江戸時代を通じて三都以外では、金沢市と名古屋市が最盛期で10万人規模、長崎市や堺市、鹿児島市が6万人以上で、他の有力諸侯の城下町はいずれも5万人前後であった。
幕藩体制維持のため各藩の拠点は一箇所の城下町に固定化され、更に領外への経済圏の自由な拡大が制約されたため、全国的な拠点とされた三都との間に格差が生じたと考えられる。
以下記録として残っている三都の町方人口を表にまとめる。
江戸の町方並寺社門前人口
江戸参照。
京都の町方並寺社門前人口
調査の対象外であった武家や公家、被差別階級人口を除く。
このほか明らかに山城国全域の人口と混乱して50万人前後の人口を伝えたり、同じ人口に関して異なる年代で記述されるなど、信頼の低いものもあるが、参考までに以下列挙する。
なお幕府が調査した山城国の武家人口等を除いた領民人口は以下の通りである。
参勤交代で江戸の人口が急増する寛永年間まで京都は日本最大の都市であった。
江戸時代後期の人口を伝える史料は残っていないが、山城国の人口がほぼ一貫して減少しており、京都の人口も20万人台まで減少していたと考えられる。
元治元年(1864年)の6万9055戸と伝えられる町方戸数から、幕末の京都の人口を大坂以上の35万人とする試算もあるが、宗門人別改帳の研究からは28万人程度と推計されている。
大坂の町方人口
17世紀後半より大坂三郷(北組、南組、天満組)の町方人口の詳細が伝わっている。
町方人口には調査の対象外であった武家と被差別階級人口を除く。
下表中僧とは両本願寺派以外の僧侶の人口を指し、両本願寺派の僧は三郷町方人口に含まれている。
『南北両町奉行連著書上』が伝える元文三年(1738年)、寛保三年(1743年)の人口は誤記と思われるが、参考までに斜体で記載する。
寛延二年(1749年)以降は両本願寺派以外の全僧侶の人口も三郷町方人口に含まれるようになる。
元禄十六年(1703年)九月の各組の町数・家数・人口の構成は以下の通りである。
宝暦六年(1756年)以降被差別階級の穢多村の統計が残っており、参考までに両者の合計を示す。
(以上出典は『東町奉行一式山城守直温旧蔵三郷並穢多村兵庫西宮塩飽島人数高帳』)
明治元年(1868年)以降は全身分を含む本籍人口。
大坂の役で興廃したがすぐに復興し、元禄年間に京都の人口を追い抜いた。
町方人口だけで40万人を超えたが、幕末には30万人まで減り、明治時代には総人口が20万人台となった。
大坂町奉行が堺奉行を兼ねていた時期もあり、江戸時代大坂と堺が一個の都市圏を築いていたと主張する人もいる。
両者の人口を合わせた大坂都市圏の人口は、安土桃山時代より大坂の役まで京都の人口を上回っていたと考えられる。
各都市の特色
文化および工業都市・京は平安京以来の都であり、応仁の乱によって大打撃を受けたものの、依然として朝廷や仏教の有力宗派のうちのいくつかの本山などが設置され、学術・芸術・宗教の面では当時の日本を代表する都市であった。
内陸部にあって陸上流通の拠点の1であるとともに、若狭湾から琵琶湖や淀川など経る内水系流通経路にあって両替商などの金融業も発達した。
また、西陣織・京焼に代表される工芸品の生産地として商工業に大きな影響力を与えていた。
政治都市・江戸は江戸幕府の所在地である。
江戸時代以前より浅草寺と品川湊あるいは利根川・荒川 (関東)と多摩川に挟まれた港町・宿場町として栄えていた。
だが、徳川家康による都市改造によって大きく成長し、加えて旗本・御家人の定府政策、諸侯に対する参勤交代政策によって、大勢の武士が常時江戸に居住することとなった。
彼らの消費生活を支えるために多くの物資が流れ込んでそれを扱う商工業者の人口も増加した。
宝暦年間には「日本第一の土地」とまで称されて、「江戸っ子」と呼ばれる独自の気質を持った町人たちが台頭した。
経済都市・大坂は貿易港であった難波津や石山御坊寺内町、豊臣政権の拠点など幾度かその都市の性格を変えながら発展を続けてきた。
大坂の陣によって大打撃を受けるものの、江戸幕府はここを西国唯一の物流拠点と位置づけて再建を支援した。
その結果、諸侯の蔵屋敷が大坂に集まるようになり、藩の年貢米・産物を大坂で売却して江戸や領国における政治運営の費用に充てるという構図が形成されるに至った。
(東国の藩の場合、江戸が用いられるのが通常であったが、その場合でも大坂に蔵屋敷など何らかの拠点を有した藩は少なくない。)
このため、「天下の台所」の呼ばれるようになる。
また、北前船の終着地、あるいは、長崎貿易の交易品の中継地としての役割や、淀川を利用した京への水運の拠点としての役割も大きかった。
三都は慶長年間には三ヶ津(さんかつ)と呼ばれていた(京は内陸都市で港町ではないが、物流拠点としての意味合いで用いられた)が、江戸の政治的地位の向上に伴い、三都の呼び名も用いられるようになった。
特に京は寛永文化、大坂は元禄文化、江戸は化政文化の中心地として、それぞれの時代や環境に合わせた固有の文化を繁栄させていった。
なお、江戸時代後期の儒学者で江戸や大坂に住んだこともある広瀬旭荘(広瀬淡窓の弟)は、『九桂草堂随筆』という随筆の中で「京の人は細なり。大坂の人は貪なり。江戸の人は夸なり……是三都人気の異る所以なり」と述べていくつか事例を挙げながら三都の比較を試みている。
以下はその概要である
京(京都)
京都の人は矜気が多く、土地を尊ぶ。
彼らは「江戸大坂といえども皆田舎である、すむに都に如くはなし(及ぶものはない)」と考えている。
だが、京都を見なければ我国(日本)が「百王一統(万世一系)」で万国(他国)よりも尊いことを理解できないであろう。
大坂
大坂の人は殺気が多く、富を尊ぶ。
彼らは「公卿は官禄は高くても貧しく、我輩の商賈(大坂商人)に手を下くる(へつらう)。世の中に富より尊いものがあろうか」と考えている。
だが、大坂を見なければ我邦(日本)が「産物多く、船楫便利」で万国(他国)よりも富みたることを理解できないであろう。
江戸
江戸の人は客気が多く、官職を尊ぶ。
彼らは「諸侯でさえも貧しい(財政難で多額の負債を抱えた)時節である。貧しいは愧ることではなく、実を置いても立身する(名声を得る)ほうがいい」と考えている。
だが、江戸を見なければ我邦(日本)の「人口衆く(多く)、諸侯輻湊(集中)」して万国(他国)よりも繁華なることを理解できないであろう。と、述べた。
三都それぞれに違うものの、日本の誇るべき都市であると結論付けている。
明治以後も三府が設置され、市制成立後も暫くは市制特例が敷かれるなど、長きに渡って重要視されていくこととなる。