主君押込 (Shukun oshikome (detention of a lord by retainers))
主君押込(しゅくんおしこめ、単なる「押込」とも)は鎌倉時代から武家社会に見られた慣行で、特に江戸時代の幕藩体制において、行跡が悪いとされる藩主を、家老らの合議による決定により、強制的に監禁(押込)する行為を指す。
日本におけるクーデターの類型である。
歴史家の笠谷和比古によってその成立と構造が明らかにされた。
前史
中世の武家社会においては後世ほど儒教の影響が強くなかったため、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなかった。
主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であり、その間に離合集散も多く固定化した関係ではなかった。
そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。
このような傾向は室町時代に顕著となり、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義材の廃立(明応の政変)、松永久秀による将軍足利義輝の殺害(永禄の変)は、いずれも将軍家に対する主君押込めとして理解することが可能である。
また、当時は守護代により主君である守護大名の廃立がたびたび行われた。
これらの現象は従来は下克上の一言で片づけられてきた嫌いがあるが、戦国大名による領国支配の形態の研究が進むにつれ、その支配体制が決して専制的なものでなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていたものであるとの見方が多くなってきている。
この観点から近年、下克上をこの慣行による現象とする理解が広まってきている。
江戸期
主君に対する忠誠を絶対とする武家倫理が徐々に確立した江戸時代においては、少なくとも徳川将軍家では見られなくなったものの、非常の措置として行跡の悪い藩主を強制的に監禁する行為は慣行として残った。
これはお家の存続を大事とするゆえに行われた行為でもある。
もし暴政により被害が深刻化した場合、あるいは藩主の不行跡が幕府に発覚した場合は、領地を治める能力が無いとして転封や減封、最悪の場合は改易という処分を受けかねないためである。
手順は概ね決まっていた。
藩主の行跡が悪い場合、家老らによって行いを改めるよう、諫言が行われる。
このような諫言は場合によっては、藩主の怒りを買い手討ちにされる危険な行為であったが、家臣としての義務であった。
諫言が何度か行われ、それでも藩主の行いが改まらない場合、家老ら重臣が集まって協議が行われる。
そこで押込もやむを得ずとの結論に至った場合、実行される。
あらかじめ目付クラス以上のある程度の身分有る者で、腕の立つ者、腕力強健な者を側に控えさせておき、家老一同が藩主の前に並び「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」と藩主に告げ、家臣が藩主の刀を取り上げ、座敷牢のような所へ強制的に監禁してしまう。
藩主は数ヶ月に渡り監禁され、その間、家老ら重臣と面談を繰り返す。
家老ら重臣により、藩主が十分に改心して今後の行いも改まるであろうと判断された場合、藩主は「誓約書」を書いて、元の地位に復帰する。
「誓約書」には、行いを改めること、善政を施すこと、押込を行った家臣らに報復を行わないこと等が明記される。
監禁の後も、藩主に改悛の情が見えず、あるいは偽りの様子としか受け取られない場合、再び悪行や暴政を行う可能性が高いと判断された場合は、藩主は強制的に隠居させられ、藩主隠居の旨幕府に届け出、嫡子や兄弟の妥当な人物が藩主となる。
1660年の伊達綱宗の押込は幕府の承認と監督のもとで行われた。
これは公儀公認の主君押込の嚆矢となる。
一方で幕府の内諾を得ない押込が発覚した際は処分されることもあった。
また、必ずしも押込派に理があるケースだけではなかった。
単なる権力争いであった場合や、あるいは改革をなそうとする君主が、既得権を維持せんとする重臣から「悪政」を咎められ押込められる例も少なくなかった。
一般に名君と評価される上杉鷹山も、一時は改革に反対する老臣から押込を受ける寸前まで追い込まれた事件もある(七家騒動)。