二卿事件 (Nikyo Jiken (Dual incidents triggered by two court nobles))
二卿事件(にきょうじけん)は、明治4年(1871年)、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が明治政府の転覆を謀ったクーデター未遂事件。
背景
尊皇攘夷の中心的な役割を果たしてきた薩摩藩・長州藩両藩を中心とした明治政府が成立したことにより、攘夷が断行されると信じていた全国の攘夷派は明治政府が戊辰戦争が終わると直ちに「開国和親」を国是とする方針を打ち出したことに強い失意と憤慨を抱いた。
これは倒幕に参加していた薩長土肥の志士や公家の一部にも及んでいた。
彼らは明治政府を倒して新しい政府を作り直して攘夷を行って外国と戦うべきであると唱えていた。
その先駆けとなったのが、明治2年12月1日(1870年1月2日)に長州藩で発生した大楽源太郎に率いられた奇兵隊などによる「脱隊騒動」であった。
この反乱は木戸孝允らによって間もなく鎮圧されたものの、大楽は九州に逃亡して攘夷派が藩政を掌握していた久留米藩や熊本藩の河上彦斎らの支援を受けて再起を伺った。
一方、大楽の救援に駆けつけていた土佐藩の堀内誠之進は京都に逃れて同地の攘夷派志士の糾合を画策した。
計画
その頃、明治政府の参与を免ぜられて京都に引籠もっていた愛宕通旭はかつて廷臣八十八卿列参事件にも加わった事があり、「天皇の藩屏」たる公卿が薩長の下級武士によって政治の中枢から切り離されていくことに苛立ちを感じていた。
これに対して家臣の比喜多源二・安木劉太郎らは同情して、明治政府を倒して明治天皇を京都へ連れ帰って攘夷を断行するべきであると進言した。
更に比喜多は弾正台で横井小楠暗殺事件の捜査を担当しながら逆に横井を糾弾しようとしたことで知られる古賀十郎とその友人である秋田藩の中村恕助を招き入れた。
古賀と中村は天皇と主だった公卿が東京にいる以上、まず東京で事を起こさなければ意味がないと説き、これに同意した愛宕は明治4年1月28日(1871年3月18日)に比喜多・安木らを連れて京都を出て2月4日(3月24日)に東京に入った。
東京に入った愛宕主従は古賀・中村に誘われた秋田・久留米藩士や前述の堀内誠之進らと謀議を重ね、秋田藩内の同志に呼びかけて日光を占領し、更に東京に火を放って天皇を京都に連れ出す作戦を練った。
一方、同じ頃同じく京都に滞在していた外山光輔も家臣の高田修とともに同じような計画を結んでいた。
高田は青蓮院門跡家臣三宅瓦全や菊亭家家臣矢田期穏清斎父子、美作国庄屋立石公久らと密談を進めた。
特に立石は久留米藩領内に匿われている大楽とも連絡を取っていた。
更に東京で愛宕が同じような計画を立てていることを知った外山は使者を送って協力を結んだ。
愛宕の計画に加わっていた久留米藩士達も当然、本国の同志や彼らの庇護下にあった大楽と連絡を取り合っていたことから、愛宕・外山・久留米藩及び大楽による三角同盟が形成されることとなった。
発覚
ところが、中川宮を取り込もうとしたところで折りしも発生した広沢真臣暗殺事件の捜査中であった政府側に情報が漏れ、山縣有朋を中心に摘発に乗り出した。
まず、3月7日(4月26日)に外山光輔が捕縛され、10日に東京の久留米藩藩邸が政府に押収されて藩知事有馬頼咸が幽閉された。
13日(5月2日)には政府の命令を受けた熊本藩兵が久留米城を接収して藩幹部を拘束(大楽は直前に逃亡)し、14日には愛宕通旭が捕縛された。
最終的には339名が逮捕されることとなり「安政の大獄以来の大獄」となった。
首謀者の二人は明治4年12月3日(1872年1月12日)、切腹させられた。