人類館事件 (Jinruikan Incident (Humankind Pavilion Incident))
人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、沖縄県や、朝鮮・アイヌ・台湾高砂族・インド・マレー・ジャワ・アフリカの人々を、民族衣装姿でそれぞれの民族住居に住まわせ展示され、見世物として観覧させた事件である。
博覧会―帝国主義の視線―
19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。
博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。
生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。
人間そのものの展示が博覧会に登場したのは、1889年のパリ万国博覧会 (1889年)である。
こうした「人間の展示」の背後には、当時席巻していた社会進化論と人種差別主義というイデオロギーが介在していた。
社会進化論は、あらゆる人類が同じ発展をすると考える単一的発展史観を取る。
したがって世界各地の地域的な差異を歴史的な発展程度に置き換えて理解する。
つまりアフリカやアジアの文明は、かつてヨーロッパが遠い過去において経験した発展段階だと考え、ヨーロッパ文明圏以外の人々・地域を「遅れた」「劣った」文明とみなした。
生きた「人間の展示」とは、観覧者たちが自らとは異なる生活様式を「実際」に見ることによって、差異を「発見」し、それを「劣等性」と読み替え確認する仕組みなのである。
大阪博覧会
明治期、様々な文物・制度が西欧より移入されたが、博覧会という催しもその一つであった。
国際博覧会への参加自体は幕末から始まっていたが、明治の世になると富国強兵の手段として盛んに「内国勧業博覧会」というものが開催された。
具体的には西欧文明の文物・技術の紹介と習得、そしてその切磋琢磨の場の提供というのが本来の目的であった。
そうした日本の博覧会に「帝国主義の視線」という博覧会の負の側面が見え始めたのが、第5回大阪博覧会であった。
当時の日本が日清戦争の勝利によって、世界の強国となったという自負を持ち始めたことが、その原因である。
大阪博覧会において、「人間の展示」は学術人類館と台湾館というパビリオンでなされた。
当時の資料『風俗画報』269号(1903年)によれば学術人類館は、以下のようなものであった。
一方台湾館は、極彩色の楼門及び翼楼をもった建築物であり、中では台湾に関し15部門(農業・園芸から習俗まで)の展示が行われた。
これは当時日本の植民地となってすでに9年が経過していた台湾の実情を内外に知らしめるために設けられたのである。
この台湾館は、その後の博覧会でも常に設けられるようになり、また植民地の拡大とともに増設されていった樺太館や滿洲館・拓殖館・朝鮮館といった「植民地パビリオン」のモデルとなった。
反発の広がり
当時の日本は、鉄道や船舶の整備によって国内の移動が促進され、南北から多くの人が博覧会を観覧しにやってきていたし、また日清戦争後に起きた日本留学ブームによって、清国や朝鮮などからも来日した人々が大勢来場していた。
彼らは展示物に対し素直に賛嘆し、そこに明治維新の成果を認めざるを得なかった。
しかし学術人類館と台湾館を前にして、日本への賞賛の念は反発へと変わっていく。
これがこの事件の発端であった。
展示された地域からの激しい抗議により、博覧会は外交問題化していくことになった。
沖縄県
沖縄県からつれてきた遊女を「琉球婦人」として展示されていることに対し、地元では抗議の声があがった。
たとえば当時の『琉球新報』(4月11日)では「我を生蕃アイヌ視したるものなり」という理由から、激しい抗議キャンペーンが展開されたのである。
特に、沖縄県出身の言論人太田朝敷が、抗議の中心となり、沖縄県全体に非難の声が広がり、県出身者の展覧を止めさせた。
当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり本土出身者と同じ日本民族だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議でもあった。
清国
清国側からも同様に激しい抗議がいくつか寄せられた。
まず宣伝によって事前に、学術人類館に漢民族の展示が予定されていることを知った在日留学生や清国在神戸領事館員から抗議をうけて、日本政府はその展示を取りやめた。
博覧会開催前に清国の皇族や高官を招待していたため、すぐに外交問題となったためであった。
その学術人類館に「展示」される予定だったのは、阿片吸引の男性と纏足の女性であった。
抗議の第2波は、台湾館での展示についてであった。
原因は、「展示」されている台湾女性が実際には中国湖南省の人ではないか、という疑いが清国留学生からかけられたためであった。
台湾女性は本当に台湾出身であったことが判明し、一件落着となった。
反発の構造―「文明」と「野蛮」の間―
「展示」された諸地域の反発は当然であったといって良い。
それらはその地域に「野蛮」という他者表象を与える一方で、「文明」日本という自己表象を構成しようとする明治日本への抗議であった。
明治日本の「文明」日本という自己表象に、西欧列強との同化願望があったことは否定できず、その点で差別主義的であったことは夙に指摘されている。
しかし沖縄や清国といった抗議する側が反差別主義的であったかというと、実はそうではない。
たとえばこの事件に関して、金城馨は、沖縄県の人々の抗議により、沖縄県民の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、沖縄人も差別する側に立っていた」と主張している。
また清国留学生たちも「インドや琉球はすでに亡国となり、イギリスと日本の奴隷となっている。
朝鮮はかつては我が国の藩属国であり、今やロシアと日本の保護国と成り下がっている。
ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。
我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」(『浙江潮』第2号、1903年)と悲憤慷慨している。
このように、抗議の原点は「野蛮」な他民族とひとしなみに扱われることであったことがわかる。
そこには日本や西欧と同質の差別的視線を共有することで、同等の存在になりたいという願望が透けて見える。
以上のような文明/野蛮言説は西欧や日本ばかりでなく、それらから差別された地域をも取り込んで語られていた。
他者との比較を通じて文明/野蛮の差異を計測し、その差異を埋める/広げるという欲望を喚起することによって富国強兵を達成しようとする思想構造が列強諸国にも、非列強諸国にもあった。
社会進化論が当時先進的科学言説として世界を席巻していたさなかにあって、文明/野蛮言説の外から思考・発言することは非常な困難であったと言わねばならない。
それは富国強兵という目標を推進するとともに、差別の再生産を準備していたといえる。
人類館事件は、文明/野蛮言説の一端を覗かせる事件であった。